「往生」 (おうじょう)
往生という言葉はいろんな意味で使われています。「あの問題にはほとほと往生した」と言えば、処置に困り閉口したということ、「あの人は大往生した」と言えば死に方を述べています。「往生際の悪い」と言えば、死に際が潔くない、転じてあきらめが悪いという意味になります。しかしこの言葉は仏教の本質に関わる重要な言葉なのです。
「往生」の原語の意味は、「~に向かって行く、~に近づく、到達する」、あるいは「何らかの状態に入る」などです。つまり、ある方向に向かっていくこと、「往」(方向)であり、また何らかのあり方(世界)に入っていくこと、「生」です。生きる方向と生まれる世界を内容にした歩みなのです。では、私たちはいかなる方向に生き、いかなる世界に生まれていこうとしているのでしょうか。自問自答しても、わが身の生きる方向と世界とがわかりません。まっ暗な世界に向かって進んでいるのでしょうか。はたまた、死を前に絶叫するしかないのでしょうか。その問いに対して決定的な答えを出されたのが釈尊でした。
「人間は、実はみな等しく、お念仏申すなかで、阿弥陀さまのお浄土に召されて生きていき、その世界に生まれるのです」。これが往生浄土のご説法です。その教えをお聞きした時、このままでは行きづまりしか見出せなかった人びとは、確かな未来のあることに感動したのです。今という時は閉ざされた方向に向かう今ではなく、開かれた世界にいよいよ召されて生きる今であると知らされ、今日この身の意義の深さに歓喜したのでした。
「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん、と」。私たちの背景には、実は数限りなく仏さま方がおられて、お念仏を称えてくださっています。私たちはそのお念仏の呼び声に呼び覚まされて、お念仏申す身になります。その時、この身に、はからずも、ずっと呼びかけてくださっている阿弥陀如来さまのお育ての世界に気づかせていただくのです。
「彼の世界に生きん」。生まれる世界と生きる方向とが、阿弥陀の浄土として彼方より開かれて来たのです。それは帰るべき故郷であります。したがって私たちが歩む故郷への道は、実は故郷からの道でもあります。だから安んじて歩むことのできる家路なのです。「道ここにあり。我、この道を歩まん」。
往生とは、死後に往生するのか生前なのかといった二者択一的な問題ではなく、彼方より今日この身に開かれてくる仏道の内実そのものなのです。
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