暮らしの中の仏教語
 
「真実」 (しんじつ)

  振り込め詐欺の被害は一向になくなりません。あんなに多くの、しかもしっかりした人がどうして編されてしまうのか、考えてしまいます。これでは他人を信じようとしても編されそうで不安です。一方、自分を信じようとしますが自分ほどあやふやな存在はありません。
 その中にあって、人は確かなものを求めつつ、しかも出会い得ぬわが身をもてあましています。本当に信じられるものに出会いたいのです。だから人は真実を探し求めているのです。

 「真実はどこに、どのようにあるのでしょう」これは久遠の昔から人間が心の奥底から発し続けてきた問いであり生存の叫びであります。長い仏教の歴史はその問い、その叫びに応えての歩みであったといっても過言ではありません。

 真実について親鸞聖人が常に立ち帰って、みずからを回復されて生きられたお言葉が、これです。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとだわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」ここで、この身この世はすべて、そらごとたわごと、まこと(真実)あることなしと断言されます。そして、まこと(真実)は念仏のみであると教えてくださっているのです。
 お念仏は阿弥陀さまのご本願のはたらき。私たちは、お念仏を申すところに、阿弥陀さまの呼びかけに呼び覚まされて、わが身の罪業の深さが照らしだされ、知らされてまいります。まことあることなきは、わが身にあったのです。そこに真実との出会いがあり、頭が下がります。「真」が「実」としてこの世にはたらくのが真実。如来の真が私たちにはたらきかけて、私たちのあるがままの姿を知らせてくださるのです。
 一方、私たちは日ごろ、真実は自分にある、わが考えに間違いなしと思って生きています。そしてその思いに取り込まれて、かえって人生を結論づけて捨ててしまうのです。思い込みを真実としてしまうからです。捨てなくてはならないのは人生ではなく、わが思い込みだったのです。したがって、真実はわが身にあるのではなく、わが身に最も深く関係し常に寄り添う唯一のリアルな呼びかけ、如来にあるのです。実は、如来こそが真実のはたらきそのものであったのです。
 
 私たちは、如来に出会い我が身のありのままの姿に目覚めれば、そのわが身を生きればいいのです。そのとき、いかなる境遇にあっても自分を卑下したり虐めたりする必要がまったくなくなって、逆に新たに、この自分を如来よりたまわった自分としていただき直して、大切に生きることができるのであります。