暮らしの中の仏教語
 
「お彼岸」 (おひがん)

  3月21日は春分の日、春のお彼岸の中日です。お彼岸には、お内仏(仏壇)やお墓の掃除をしてお花を供えお参りします。お寺では彼岸会法要がお勤めされ、お経があがり、聞法の集いが開かれます。

 この「お彼岸」という言葉はもちろん仏教語です。彼岸の「彼」は「他の」「向こう側の」「彼の」を意味します。したがって彼岸とは、私たちの迷いの世界を超えた向こう側、絶対的に他なる、彼の仏さまの世界を表現する言葉なのです。
 「生死の彼岸に度せんと欲わん者」(生死という迷いを超えて彼の岸にわたりたいとのぞむ者)など、「生死の彼岸」と表現されたりします。生死・迷いの世界が此の岸、此岸であり、それを超えた向こう岸が彼岸、仏さまの世界です。

 ところで、この彼岸と此岸とを分けるのが、ほかならぬ「川」の存在なのです。川があるからこそ向こう岸が彼の岸(彼岸)として立ち現れます。すると同時に、今度はこちら側の岸の存在が知らされてきます。「此の岸」(此岸)です。川がなければ「彼岸」も「此岸」もなく、どこまでも単一で平坦な世界が続いていくだけです。たとえば、砂漠の中ではよく砂に埋もれた川があります。このように砂漠の中で川が隠されていますと、向こう岸とこちら岸は存在がはっきりしていません。しかし砂の中から川が現れてくると両岸の存在がはっきりしてきます。

 仏教では彼岸と此岸とを隔てる「川」は私たちを縛っている無明・煩悩にたとえられます。無明・煩悩という川が自覚されない限り、彼岸も此岸もあるのかないのか区別もたたず曖昧なままです。一方、無明・煩悩に目覚めますと、仏さまの世界(彼岸)と私たちの迷いの世界(此岸)とが明瞭に区別され、その意義が知らされてきます。つまり、彼岸の世界が明瞭に知らされることは、同時に私たちの迷い深きこの世、此岸の世界が照らされ、はっきりと知らされてくることでもあります。「照らす世界」と「照らされる世界」です。
 そこに、私たちには「一つの世界」のみに生きることから「二つの世界」に生きることが始まります。自分の思いがすべてであった生き方から、その生き方が照らされ問われる世界に生きることが願われてくるのです。生きらるべき世界は平板な一世界ではなく、呼びかけ呼び覚まされる立体的な二世界であります。

 「お彼岸」は、み仏の世界の確かさを仰ぎつつ(彼岸)、わが身の罪業の深さが知らされていく(此岸)、まことにてらいのない穏やかな温もりを私たちに開いてくださる仏事であります。