暮らしの中の仏教語
 
「殊勝」 (しゅしょう)

 「殊勝な心掛け」や「殊勝な態度」などの「殊勝」という言葉は、文字通りに解釈すると「殊(とく)に勝れていること」です。
 もともとは仏教用語として、「もっとも優れていること」という意味で使われていました。現在では、心がけや行いが他の人より勝っている、特に優れている、けなげで感心であるという意味で「殊勝」という言葉が使われています。

 仏教語としての「殊勝」は、『仏説無量寿経』(ぶっせつむりょうじゅきょう)という経典に、仏の威徳を「殊勝にして希有(けう)なり」といい、阿弥陀仏がかつて菩薩の時に立てた一切衆生を救う誓願を「無上殊勝の願を超発(ちょうほつ)せり」と称讃しています。また、仏の教法を「殊勝の法をききまいらせ候ことのありがたさ」(蓮如『御文』(おふみ))といい、仏のすぐれた智慧を「殊勝智」と呼んで讃嘆(さんだん)しています。このように仏・菩薩の教えや智慧だけでなく、場の雰囲気が甚だ厳粛なことを「殊勝の気」と表現します。

 新しい年を迎えると「殊勝の気」が満ちていたものですが、今や世俗化が進み、すっかり消え失せてしまいました。代わって不埒(ふらち)な事件を起こしたり不適切な発言をして謝罪する〈殊勝な顔〉が巷に氾濫しています。新年の季語には〈初春〉〈歌会始〉などのように「初」や「始」が付くめでたいものが多いですが、そのうちに〈初偽装〉や〈不祥事始〉が季語にならぬようにと願うばかりです。