暮らしの中の仏教語
 
「安心」 (あんじん)

  一つ前の二十三願は、阿弥陀仏の慈悲心を受け取った念仏者が、諸仏を供養することによって、喜びの報恩感謝ができるようにと願われた本願でした。

そしてこの二十四願は第二十三願の裏づけです。
 諸仏供養を願われた仏さまは、その供養に必要な具(品物・道具・手段)が思いのままに、自由に得られるようにしようと願われました。せっかく供養をしようと思っても、供養の具が得られなければ、供養を実行できないからです。仏さまの思いやりが用意周到であり、単なる願望だけに停まらず、必ず実行され実現されることを望んでおられることを示しています。

 供養には法供養・財供養など、いろいろの供養の方法があり、どのような供養を行なうかは、その人の「供養しようとする心」にあります。供養の心は、元々「欲の心を離れる」ことを目的としているのに、物を惜しみ、金に執着する心の方が強く、供物に物惜しみする人が多いのは悲しいことです。
 この欲を捨てなければ、供養も本物とは言えません。「修善も雑毒なるゆへに、虚仮の行とぞなづけたる」と詠われた宗祖の言葉が、いよいよ身にしみて感じられます。供養ということは、やさしそうで難しいことです。それは、わたしたちの心が浅ましく、貪欲で、供養の心を持たないからです。善に毒が雑じり、地獄の業となってしまうからです。
 そこで、わたしたちに仏さまから与えられた最高の供具が、「称名念仏」です。称名を往生の因とせず、信心正因、称名報恩と教えられました。凡夫ができるはずのない「報恩」は、仏さまからいただいた「称名念仏」しかない、「称名こそ最高の報恩」と教えてくださいました。