暮らしの中の仏教語
 
「所詮」 (しょせん)

 同じ時代・地域に生きる人々が互いに関わり合いながら暮らすこの世を、すばらしい人間世界と見るか、所詮は浮き世と見るか、人さまざまです。このように〈あれこれ思いめぐらした結果、落着くところは〉というような意味合いを表わす語が「所詮」です。

 この所詮という語は、つねに能詮と対をなして用いられる仏教用語です。仏教には数多くの経典があり、それらの経典によって説き明かされる内容を「所詮」といい、その内容を明らかにする言葉や文字を「能詮」といます。この「能」は「~する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語です。そこで「能詮」は言い表わす〈ことば〉を、「所詮」は言い表わされる〈内容〉を指します。これを我々の行為について言えば、はたらきかける主体が「能作」で、その行いの仕業や振る舞いが「所作」となります。要するに、仏教経典の文句によって説き明かされる内容が「所詮」です。

 今日では「所詮、この世はままならぬ」のように下に打消しの語を伴い〈どのようにしても、どうせ〉の意味を示す語として「所詮」が用いられるようになりました。