暮らしの中の仏教語
 
「愚痴」 (ぐち)

 「みんなの前ではあれほど親切で饒舌なのに、家に帰って来ると、ちっともしゃべらない。なんでこんなに思いやりがないの」と言われてしまった経験があります。自分の希望どおりでない時には、だれしもつい愚痴が出てしまいます。「愚痴をこぼす」「他人の愚痴を聞いてあげる」などと言われる「愚痴」とは、こぼすことによって状況が好転する見込みもないのに、くどくどと嘆くことを意味します。聞かせる相手にとっては迷惑な話なのに、グチる本人は、自分の心の中に秘めておけなくなるのですから、どこか愚かさが表れています。一方、自分の置かれている境遇が良好で順調な時には、あまり愚痴は出てきません。愚痴っぽい人は嫌われ、逆に、愚痴一つ漏らさない人はその辛抱強さを褒められるのが常です。しかし、出たり出なかったりする性質のものが、愚痴の真意なのでしょうか。

  仏教でいう「愚痴」は、「愚癡」とも表記し、仏の智慧に暗いこと、衆生の根本的無知をさします。数ある煩悩の中でも「貪欲(とんよく)」「瞋恚(しんに)」「愚痴」は、仏道を歩む者にとっての三毒と名づけられるように、もっとも根強い煩悩です。大乗経典には、衆生の三種の病とその治癒法が説かれています。

 「貪欲の病には骨相観を、瞋恚の病には慈悲観を、愚痴の病には縁起観を教える」(涅槃経)
 愛欲に溺れている者には、その対象がどれほど魅力的に見えようとも、結局、骨でしかないと観察させる。怒りの多い者には、なぜ腹立たしいのかを見据えさせ慈悲の心を回復させる。無明の闇に覆われて誤った見方しかできない愚痴の者に対しては、縁起の理法を観察させるというのです。  

 様々な条件が相まつことにより私の現状はあり、それを固定的に見ることはできません。愚痴一つこぼさない人が、先々もそうかといえば縁によってそうなっているにすぎず、別の条件がととのえばいつでも変化します。仏陀釈尊が目覚められたとされる「縁起」は、一見、当たり前の道理のようでありながら、頑なにそれを見えなくさせる根源こそが「愚痴」という煩悩なのです。