暮らしの中の仏教語
 
「極楽」 (ごくらく)

 疲れた体を温泉にひたす。「お湯につかっているときが最高。ああ、極楽、極楽」と独り言。しかし、いつまでもつかっているわけにはいきません。そこを出て現実生活に戻らねばなりません・… 人はいつの世も幸せを求めます。求ても裏切られ、裏切られても探し求めます。幸せはどこにあるのか、これは私たちの永遠のテーマなのです。

 仏陀はそれに応えて「極楽」をご説法くださっています。極楽の「極」は「きわみ、最高の」、「楽」は「幸せ、よろこび」。原語はsukhavati(スカーヴァティー)。スカーは「幸せ」、ヴァティーは「~を有する、~のあるところ」で、「幸あるところ」です。阿弥陀仏の極楽世界を指し、私たちの煩悩の濁りを浄めてくださるので極楽浄土とも申します。 
 さて、長い間人間が探し求めてきた本当の幸せ、極楽とは一体何であり、どこにあるのでしょうか。

 まず、私たちの暮らしのなかでは、温泉につかって「ああ極楽だ。最高~!」と外的な環境を感覚的に受け止める幸せ感もあります。またすばらしい芸術や思想などに出会って意識されてくる内面的な感動もあります。しかし感覚的であれ意識的であれ、そのいずれも根底に自分の我執がはたらいていて、自分の思いを離れることの出来ない正に自力我執そのものです。

 一方、極楽はそれとは質を異にして、仏陀の智慧に呼び覚まされ、自意識の思いを超えて気づかされてくる豊かな世界への感動であります。仏陀釈尊は『仏説阿弥陀経』の中で仏弟子舎利弗に向かって次のように説法しておられます。「苦しみ多きこの世の西方に、数限りない仏陀の国土を越え過ぎて、世界があります。極楽と名づけます。その国土には仏陀がおられ阿弥陀と名告り、今、現に在して法を説いておられます。舎利弗よ、かの国を極楽と名づけるのは、その国に生きる衆生には苦はなく、ただ楽を受けているからです」ここで、この苦難の世界を超えて、限りない智慧と慈悲の阿弥陀さまが、今、現に在して、私たちに寄り添い、説法してくださっています。そのご説法に出会い、その御国に生きていく身になること、これが本当の幸せ、極楽であると教えてくださっているのです。

 思い通りになることが幸せのすべてであると考えて、まわりをも傷つけわが身をも傷つけていく私たちです。その私たちを悲しみ、阿弥陀さまの説法は休むことなく呼びかけておられるのです。その呼びかけは智慧と慈悲。その呼びかけの中に限りなく気づかされ育てられ、どこまでも共に生かされていく世界。それこそがすべての人びとにとっての命の故郷であり極楽であります。