暮らしの中の仏教語
 
「意地」 (いじ)

  「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい」。ご存知、夏目漱石『草枕』の冒頭部分の一節です。何ごとにつけても意地を通すと、人間関係がギスギスしてしまい、その場所に居づらくなってしまいます。まことに人の世の姿です。ああ、あんなに意地を通さなくてもよかったのにと後で気づいても、根っから意地っ張りの自分は、なかなか気づきません。かえって他人の意地の悪さには、すぐに気づいてしまいます。どうも、意地の張り合いばかりしていて、本当に何か大切なのか分からなくなってしまうこともしょっちゅうです。
 さて、この意地ということばは、すっかり日常に溶け込んでいますが、もともとは仏教語なのです。
 意地の「意」は原語はマナスで、考えたり、判断したりする心のはたらきを意味します。たとえば、田中さんという人が私の眼にとまりますと、見えてきたその人のイメージをとらえて「彼は田中さんだ」と考え、判断します。また、目にとまる(眼識)以外にも、聞こえたり(耳識)、臭ったり(鼻識)、味わったり(舌識)、触れたり(身識)して感覚されたものを、さらにそれぞれのイメージとして取り込み、判断して、あれこれと思う心が起こってきます。「う~ん。いい匂いだ。あれは白檀香だな。だれが取り寄せたのだろう。高価だったろうな」などです。それが意であり、意識ともいわれます。このように、意はあれこれと思い巡らす心のはたらきですので、「思量」とも漢訳されています。

 つぎに、意地の「地」の原語はブーミで、地面、大地を意味し、すべてのものを受け止めて生み出すはたらきをいいます。私たちは見たり、聞いたり、あれこれと体験したことを受け止めて思いを巡らせながら生きています。実はそれが私たちひとり一人の在りようを決めているのです。意地とは、意を大地とするという意味です。つまり、意、すなわち思い巡らすことが大地となって、さまざまの体験を受け止めて、独自な個人というものが内容づけられ成立するのです。意地とは個人性を生み出す本とも言えましょう。しかしそれにとどまりません。

 なぜ人間はいろいろと意をはたらかせ、思いを巡らせているのに、お互いに対立するのでしょうか。一生懸命考えているのですが、出会うことができないのは一体なぜなのでしょうか。その問いに光が当たったとき、意地の奥に潜んでいる自我意識に気づかされてくるのです。意地を通すのは、意地の奥に潜む気づきもしなかった自我意識ゆえのことであったのです。