暮らしの中の仏教語
 
「有為」 (うい)

  日ごろ「あの人は有為の人材だね」ということばを聞きます。「前途有為、前途有望」。才能があってこれから先、世の中に役立つことを言います。そのように言われると嬉しくなってきます。

 ところでこの有為は仏教語であって「うい」と読みます。有為の「有」は「~を有する」、「為」は「為す、行う」で、「造作」とも漢訳されています。原語は「形成されたもの」という意味です。またその形成するはたらきを「行」といいます。行とは、単にからだ、ことば、こころの行為にとどまらず、その奥底に限りなく過去からはたらいている深層の領域をも意味します。思いも届かない混沌とした深みから、縁によって関係し合い、はたらき出して私たちの世界が「形成されている」のです。したがって、現に形成され立ち現れているこの現実は、今に始まったことでもなく、また創造神や運命という第三者的な力によって形成されたわけでもありません。全くこの世は深い因縁によると言うほかありません。世界は織りなす因と縁によって形成された世界、すなわち有為の世界なのです。

 ところで、釈尊の時代に自らの出生を受け止めることができず、父を殺し母を宮中奥深くに閉じ込めたアジャセがいました。かれは身に瘡蓋ができるほどの、身の置きどころのない悩みを生きます。世の人びとはそのアジャセを嫌悪し無視します。ところが仏陀釈尊は、この世にとどまりアジャセを待ってくださっていたのです。仏陀はアジャセの現実に身を寄せて語ります。「我が言うところのごとし、アジャセ王の「為」に涅槃に入らず。(中略)
 また「為」は、すなわちこれ一切有為の衆生なり」さらに仏陀は、アジャセにかぎらず一切有為の衆生の為に涅槃に入らずと宣言されます。すべての衆生はもらさず「有為の衆生よ」と仏陀に呼びかけられ、待たれてある存在であったのです。「なぜこの世に、この父母のもとに生まれ、それゆえに苦しまなくてはならないのか」アジャセの絶望的な呻き。それは意識の奥底にはたらく根深き業ゆえでありますが、また業ゆえにアジャセには気づきようもありません。いろいろと解決方法を探しますが心底納得できる回答を得ることはできません。救いの手だてはいかに自分の内面を探し回っても見つからないのです。そこに仏陀との出会いの大切さがあります。アジャセは仏陀に待たれ照らされ、はじめて我が身に気づくことができたのです。まことに、我が身は因縁によって形成されたものだったのです。 

 有為の衆生とは、単に迷える者ということにとどまらず、慈悲深い仏陀に悲しまれ深い思いに願われてある、このご縁の深い我が身自身なのです。