暮らしの中の仏教語
 
「無縁」 (むえん)

 「無縁社会」という言葉で最近よく耳にするようになった「無縁」。地縁や血縁が希薄になり、「孤独死」する人が多くなった現代日本の大きな問題として取り上げられています。「無縁死」という言い方まで出てきました。
 
 しかし、仏教で「無縁」という場合、縁がないという意味ではありません。縁を「条件」と訳してみれば、よく分かります。無条件、つまり条件に関わらないことを意味しています。その代表が「無縁の大悲」と言われる仏さまの慈悲です。相手が誰であろうと、差別することのない平等の心です。
 慈悲の心は人間にもないわけではありませんが、人間はどうしても条件づけを離れられません。自分と関係が近いときには、慈しみ、悲しむ心が起こり、逆に関係が遠いと、関心も薄れます。それは人間のもって生まれた性分でしょう。ただ、人間の慈悲の狭さを知っておかねばならないのです。
 血縁だけにこだわったり、地縁による結びつきを強調するならば、その縁に加われない人を必ず排除していく。それが人間の情感の本質でしょう。
 日本の中世における「無縁」は、世俗の権力や支配の及ばない場所を意味しました。そこは、地縁や血縁を超えた独自の関係が結ばれ、自由で明るい世界だったのです。人は決して孤立していなかったのです。このような意味での「無縁」が、少なくとも中世までは存在し、言葉としても用いられていたのです。
 
 「無縁社会」は現代の世相をよく表わしているかもしれません。しかし、助け合い、支え合う関係が切れているというのならば、「無援社会」と言うべきではないでしょうか。そして忘れてならないのは、その無援の社会を作っているのは、私たち自身であるということです。

 「無縁」とは関わりを断つことではなく、分け隔てなくつながっていく方向を指し示す言葉なのです。