暮らしの中の仏教語
 
「外道」 (げどう)

 その昔、お釈迦さまの時代、インドのマガダ国、王舎城にアジャセという太子がいました。彼は自らの出生を受け入れず、父を殺し母を宮中深くに幽閉したのでした。これは有名な王舎城の悲劇です。

 当時インドの伝統的な宗教にバラモン教がありました。その教えによりますと父親殺しは無間地獄に堕ちるのです。アジャセは恐れおののきます。「罪は汚れとして身にずっと付着しているから清めの儀式を受けて罪を洗浄して地獄をまぬがれるがよい」。これがバラモンの説く救済です。

 一方、その教えに否定的なグループも多くいました。彼らは、父親を殺してしまったことに苦悩するアジャセに言います。「悩むのをやめよ。眠りを好めばいよいよ眠りに沈むように、悩めば悩むほど泥沼にはまる。また、父親殺しは地獄に堕ちるなどとバラモンは言っているが、実際に地獄に行って見てきた者がいるのか。いないではないか。地獄など存在しない。だから父を殺したからといって地獄を恐れることはない。人間は何をしてもいいのだ」この説は、バラモンの神を否定して人間の考えに基づいて問題を解釈、解決しようとする、いわば自由思想家のグループの一説であります。この説には説得力があります。「あっ、そうとも言えるね」と思わず追随してしまいそうです。

 しかしアジャセはこの説にも満足できません。なぜなら、人間の考えというのは一理あるのですがうわすべりで、わが身の奥深くの闇が取り残されたままなので、わが身自身が晴れないのです。では、神にも依らず、人間の考えにも依らず、一体、人間は何に依るべきなのでしょうか。 「智慧に依るべき」。これが仏陀の道であり「内道」といわれました。人間の内面深くの闇を照らし出す仏陀の智慧に生きる道だからです。それに対して、仏陀の智慧に依らず、神や人間の考えに依る生き方は「外道」と呼ばれました。仏陀の智慧(内)に出会わず、人間の思い込み、外面(外)を基とする道だからです。 

 「知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貪着するがゆえなり、と」外道のもつ宗教性は、いかに善なる姿に見えようとも、どれも我執を根本的に離れることがなく閉ざされている。なぜなら、世間の名声やそれに伴う利益や称讃に貪着し続けているからだ。 
 
 親鸞聖人は、外道にのみ自身を奪われてしまっている自身の本質を開明して、そこに本願のはたらきを開いて下さいました。本願力の中に生かされている身に眼を開いてほしいと自ら私となってくださっています。そして、聞法による内道に立ち帰ってほしいと願われたのが親鸞聖人の九十年の生涯でありました。