暮らしの中の仏教語
 
「不思議」 (ふしぎ)

 人間の心で思いはかることも、言葉で言い表すこともできないことを、「不思議」といい、「世にも不思議なことだ」などといって、不思議な事実やはたらきに、人は強い関心と興味をもちます。そして、しばしば宗教や宗教者にも、人知をこえた不思議な能力やはたらきを期待し、その力やはたらきによって、現実の問題を解決しようとします。

 しかし仏教は、基本的に自覚の宗教です。それは、仏の智慧(ちえ)に照らされて、自らの生存在に目覚めてゆく宗教です。生死苦悩の生を転じて、真実の生に立たしめるという、その本願のはたらきを「不思議」というのです。

 親鸞聖人は、中国の曇鸞大師の『浄土論註』の教えによって、和讃に「いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき 仏法不思議ということは 弥陀の弘誓(ぐぜい)になづけたり」とうたわれています。奇蹟や奇怪の不思議ではなく、仏法が不思議である、と。阿弥陀仏が、すべての衆生(しゅじょう)を阿弥陀仏の国にあらしめたいと願い、もし生まれなければ仏は正覚(しょうがく)を取らない、と誓いつづける本願のほかに、真の不思議はない、というのです。

 さらに親鸞聖人は、仏の本願との出遇いに開かれるものを、インドの天親菩薩の『浄土論』の教えに導かれて、和讃に「本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海(ほうかい)みちみちて 煩悩の濁水(じょくしい)へだてなし」とうたわれています。。「仏の国に生まれよ、もし生まれなければ、仏は仏とはなりません」と誓い、招喚(しょうかん)する仏の本願に、ひとたび出遇うならば、いかなる人も、空しく過ぎる生の惨めさに打ち勝って、仏の功徳を、この身に賜わって生きるものとなる、といわれるのです。空過(くうか)する人生を転じて、仏の功徳に生かされる生の誕生、このような生の転換、転成(てんじょう)されるはたらきのほかに、不思議、不可思議とよぶ事実はないのです。