暮らしの中の仏教語
 
「魔」 (ま)

  「魔が差した」。この言葉ほど怖いものはありません。手に負えないからです。どんなに人格者であっても、どういうわけか、してはならないことをしでかしてしまいます。あの人に限ってそんなはずはない・・・などの言葉もかき消されてしまいます。

 では、どうして「魔」が心の中に入り込んで悪い判断や行為をしてしまうのでしょうか。人間はみんな自分を善人だと思っています。だからそのような魔は自分自身にあろうはずもないと考え、自分以外のところにその原因を見つけようとします。また、不幸な境遇に陥ったとき、いつも口にするのは「私は少しも悪いことをしてはいないのに、どうして?」という言葉です。魔が「たたり」の本体として受け止められていくのです。このように、いつのまにか魔は実体視されて人間を縛っているものと見なされてしまいます。

 もともと「魔」とは何なのでしょう。魔とは原語では「マーラ」で「魔羅」と音写します。この魔という字は、それまで使われていた「鬼」が「麻」の発音と合体して「魔」という漢字がわざわざ作り出されたともいわれます。魔は中国伝統の「鬼」では言い表せないほど深い意味合いの言葉だったのでしょう。さて、この魔(マーラ)は、殺す、破壊する、邪魔する、障碍(しょうげ)する、誘惑するなどがもともとの意味です。人間が目的に向かおうとする歩みを邪魔しさまたげ、本来人間として歩むべき道を迷わせ、自分自身を破壊しダメにしてしまうものです。

 ところで、釈尊が菩提樹の下で初めて開かれたさとりを「降魔成道(ごうまじょうどう)」といいます。魔を降伏させたとき(降魔)、そこにそのまま、歩むべき道が成立したこと(成道)を指し示している教えです。私たちは苦悩の原因を自分の外に見つけ、そしてその原因を無くしてしまえば苦悩は無くなると考えます。いわば魔を外に見て魔を壊滅させようとするのです。ところが釈尊は、わが身を縛っている苦悩の原因は、ほかならぬ自分自身にあることに目覚められたのです。
 
 つまり魔の正体を発見されたのです。すると魔は手出しができず、力を失い退散します。魔を殺すのではなくその正体を見破って力を失わせる。これが釈尊の目覚めだったのです。では魔の正体とは何であり、何が歩みを碍げているのでしょうか。それはわが身の内に気づかずにはたらいている無明・煩悩にほかなりません。ところが、魔が外なるものと考えられる限り、実体化され絶滅されるべき対象となります。

 人類の歴史は、無明・煩悩という魔の正体に気づかぬまま、善神にこと寄せて魔を実体化し、撲滅しようとし続けてきた歴史でもあります。人類の業縁(ごうえん)の根深さから目をそらさずに世間を問い直すことが願われているように思われます。