暮らしの中の仏教語
 
「人間」 (にんげん)

 私たちは「あの人は人間らしい人だ。人間味があってやさしい」など、なにかしら心の通った温かいあり方を「人間」ということばに托して使います。また、現代では、いよいよ「人間」が大変重要なテーマになっています。恐らく、機械文明や資本主義社会の中で、人間の生み出した貨幣経済や企業組織などによって、本来の人間らしい生き方が奪いとられて非人間化し、人間疎外が現代社会の大問題となってきたからでしょう。それで、今まで解っているつもりでいた「人間」について、あらためて「何だろう」、「人間に生まれたのはどういう意味があるのだろう」など、盛んに問われているのでしょう。

 ところで、人間とは実はもともと仏教がずっと重要にしつづけてきた大事なテーマです。「人間」を意味する原語(インドの言葉)はマヌシュヤで、「考えるもの」を意味します。これは、他の生き物とことなり考えることが人間の大きな特徴であるからです。人間は考えつづけます。それゆえに愁いも悩みも深いのです。日ごろ私たちは「私たち人間はね」とか「人間である限り」など、すでにわかっているつもりで「人間」という言葉を使っていますが、

 実は、本来の意味で人間とは、仏さまに教えられて初めて気づかされる生存のあり方をいうのです。つまり、人間とは仏法に照らされて知らされてくる意義深い、大変重い言葉なのです。

 「それ、一切衆生、三悪道をのがれて、人間に生まるる事、大なるよろこびなり」(『念仏法語』)「すべての衆生よ、あなた方が地獄道・餓鬼道・畜生道という人間ならざる三つの道(三悪道)をのがれて、人間に生まれたことは大変な喜びなのです」と、慈悲深いお言葉で特に説かれています。人間とは、これら三つの道とは違う道なのだとしっかり目覚めつつ歩む生き方が、人道(にんどう)なのです。では、その道は何に気づいて歩む道なのでしょうか。そしてその道に生まれることがなぜ喜びなのでしょうか。人間に生まれたことは、思い煩い生きづらいことばかりです。

 しかし実はその生きづらさこそが、どこまでも諦めずに自分自身をさらに問い直せと促す「いのちのメッセージ」であり、また同時に、苦しみ以上の深さ豊かさの在りかを指し示す「覚りへの道しるべ」でもあるのです。悩みつつも、悩みを手だてに仏法に出会って意義ある人生を生きることができるのも、人間です。そこに人間に生まれた意義と喜びがあるのです。
 人間とは単なる人間ではなく、仏法に出会うことのできる器なのです。人間は尊くて重い存在なのです。