暮らしの中の仏教語
 
「一味」 (いちみ)

 一味を振りかけてうどんを食べます。ここでの一味とは一味唐辛子のことで、かけるとピリッと味が引き締まります。また、窃盗団の一味とか、あの一味には加わりたくないなど、同志、仲間さらには派閥といった意味にまで使われます。そこには閉鎖的な集団の意味合いが感じられます。
 
 しかし、一味とはもともと仏教語で、原語はエーカーラサ。エーカは「一つ」、ラサは「味、風味」をいい、「この水は甘い、あの水は苦い」といったぐあいに、甘い味、苦い味など、水や液体の味わいの違いを表す言葉です。それで一味とは、そういった違いや区別のない一つ味わいをいい、平等を意味します。
 釈尊は、ガンジス川、ヤムナ川など、川はそれぞれ水源も違い、水質も違うけれど、大海に流入すれば一つの塩味(一味)になるという喩えをお出しになり、いかなる人間であれ、ひとたび仏陀の教えに出会えば、身分や階級、性別、能力などの違いを超えて平等な仏弟子の関係を生きる身になると語りかけておられます。それを一味平等の僧伽(僧、同朋、あつまり)といいます。そこに私たちが生きるべき本来の関係が願われているのです。

 さらに親鸞聖人はその課題を受けて、「凡聖、逆謗、ひとしく回入すれば、衆水、海に入りて一味なるがごとし」とお示しくださっています。凡夫であれ聖者であれ、五逆罪や諸法罪を犯す者であれ、お念仏の呼びかけに出会い、回心して、本願の世界に呼び戻されて生きるとき、ちょうどいろいろな水が海に入って一つの味になるように、ともに同朋として平等にうなずき合う一味の関係を生きる身をたまわると、教えてくださっています。

 私たちは日ごろ、「あなたは、わかっていない」「いや、そういうあなたこそ、わかっていない」「あの人がわかってくれさえすればいいのに」と言い続け、わかったような顔をして生きています。関係のねじれは解けようもありません。そこでは、「みんないっしょに仲良く生きましょう」というステキな言葉も空しく響きます。言葉が通じないのです。つながらないのです。

 しかしその私たちを深く悲しんでくださって、「どうかお念仏を申す身になってください」と如来さまは呼びかけてくださっています。その呼びかけの中に身を置くとき、私たちは、わかっているつもりで決め込んでいたわが身が照らされて、実は何もわかっていなかったという愚者の身の事実に気づかされてまいります。凡夫も聖者も罪人も、ともどもに教えの前に身を置き愚者に帰りつづける。そこに、わがかたくなさが破られ、言葉の通じる世界が回復してまいります。これが一味の世界なのです。