暮らしの中の仏教語
 
「邪見」 (じゃけん)

 近年、全国的な規模で問題になっているものに幼児虐待があります。抵抗する術を持たない幼児を折檻(せっかん)し、時として死亡させる事件です。こういう事件を知るたびに、私たちは「なんて邪見なことをするのか」と憤慨して、加害者を裁き、なじることとなります。このような感情が起こるのは世間一般では当然なことと思います。

 しかし、このような場面で登場する仏教語としての「邪見」は、ただ事件の加害者を一方的に批判するだけの言葉ではありません。事件を傍観し評論して、正義の立場に立って加害者を裁き、なじる私たちをも問う言葉です。その意味では、邪見とは、私たち人間の自己中心性を問い、その歪み、傾きをただすことばです。相手を非難することばではありません。 

 それは仏様の智慧、それを正見(しょうけん)といいますが、そこから照らしだされた、人間の迷いをこそ明らかにするものなのです。だから、幼児虐待の問題でいえば、因縁所生(いんねんしょしょう)のいのち、つまり、あらゆる縁に因(よ)っていただかれた「いのち」を私有化することも、切りすてることもできないことなのです。加害者はもちろんのこと、加害者を責めるものも同一に、因縁所生のいのちに疎(おろそ)かであることが邪見から問われているのではないでしょうか。