暮らしの中の仏教語
 
「荘厳」 (しょうごん)

 京都の駅前にある東本願寺の阿弥陀堂にお参りした時のこと、お堂に入るとその荘厳さに圧倒され、思わず頭が下がりました。お内陣には阿弥陀さまの御木像がご安置され、欄間には飛天が舞い、壁には奥深い青色の水の中に生き生きと成長している蓮、蓮水が描かれています。お仏華やお香が厳かにおそなえされています。私たちが日頃親しんでいる家庭のお内仏も同様です。このようにお内陣やお内仏には「お飾り」が整えられています。このお飾りを「荘厳」(「ショウゴン」と発音)と言います。

 ところでこのお飾り「荘厳」とはどのような意味があるのでしょうか。荘厳とはもともと梵語では「ヴューハ」といいます。「秩序あるみごとな配列」という意味です。また「アラムカーラ」ともいいます。これは「飾り、飾る行為」を意味します。したがって、荘厳とは「形なきものを具体的な形(みごとな配列・飾り)で表現すること、または表現されたもの」という意味になります。  

 「釈迦、極楽の種種の荘厳を讃嘆したまう」(お釈迦さまは、極楽世界のさまざまなお荘厳を讃えておられるのです)如来の大悲心はあらゆる生きとし生けるものに対して平等にはたらいているのですが、はたらきですので形はなく眼には見えません。だから具体的に表現されたもの「荘厳」を通して出会ってはじめて、そのありがたさに気づき、讃えずにはおれないのです。
 形あるものを通して形なきものにふれるのです。私たちはいつしかこの人生を、無内容な出来事の繰り返しに過ぎないと思ってしまいます。しかし同時にまた、この一見無意味な現実にあっても、お浄土に往生する新しい生活を回復して人生を丁寧に全うしたいと願わずにはおれません。
 しかし悲しいことに、私たちはその往生すべきお浄土がわかりません。いかなる世界に生まれていけばいいのかわからないのです。永らく世間の考えにドップリ浸かってきたために忘れはててしまっているからに違いありません。その忘れはてた私たちの姿を「みそなわし」「悲しみ」本来の世界を回復するように「願ってくださっている」のが阿弥陀如来の願心なのです。そのために如来は、私たちの眼に見える表現方法をあえて使って、私たちの帰るべき世界を表現(荘厳)してくださっているのです。

 辛いことも悲しいことも、帰るべき世界を開く扉であることを如来の願心は語りかけています。苦悩もお浄土を指し示す荘厳であったのです。