暮らしの中の仏教語
 
「無上」 (むじょう)

 「このたび最高の賞を頂いたことは私にとって無上の喜びとするところです」。「苦しいことばかりでしたが、こんなに長生きができて無上です」。私たちは、喜び、意味、値打ちなどがあることに対して無上ということばを使います。「最高の」「この上ない」といった意味でいわれています。

 ところで、無上とは「上が無い」と書きますが、では、もうそれ以上に上が無ければ、有るのは下ばかりなのでしょうか。最高峰の富士山の頂上に立つと、ずっと裾野が広がっており、すべてを下に見下ろすばかりです。無上がもし最高という意味でいわれますと、無上は限りなく下を見下すことになってしまいます。はたしてそうでしょうか。無上を最高という意味でかたづけるには、豊かさに欠くといわざるを得ないものがあります。

 実は、この無上という言葉は仏教語なのです。原語はアヌッタラで、音写して阿耨多羅です。これは「ヌッタラ」つまり「より上の」「より高き」「より良い」といった比較による価値を否定する言葉です。

  「「無上」と言うは、有上に対せるの言なり。信に知りぬ。大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなわちこれ八万四千の仮門なり」          (『教行信証』)

 ここで無上とは有上に対する言葉であると定義されます。そして、仏の真実に出会い深いお育てをいただく大きな利益こそが無上であり、一方、有上はその出会いのない小さな利益であると明らかにされています。有上とは、上が有るのですから下も有ります。つまり比較することによる上下の価値づけです。一方、無上とは、上が無いので下も有りません。比べて最高という意味ではないのです。つまり、比較による価値ではなく、仏さまの真実に出会っていただいた大変なお育てをいうのです。

 私たちはいつも、お金、地位、名誉さらには健康、長生きなど、世間の価値を気にして、自分が他と比較して少しでも勝れていることで満足を得ようと、頭を上げることに一生懸命です。しかしそれは結局は自己満足であり、深い満足は得られず空しい自分が残るだけです。一方、他と比較して少しでも劣っていると、今度は自分自身を軽蔑して、結果的にはやはり自分を捨てて昏々として終わることになります。実はこれらは共に、比較を超えた無上なるものに出会っていないからです。

 無上なるものとは、世間の価値に振りまわされてわが身を失っている私たちを呼び覚まし、育ててくださっているものであります。尊くて、頭が下がり、ありがとう、おかげさまといわざるを得ないもの、仏さまのことなのです。 
 比較ゆえに空しさいっぱいの現代社会において、本当の喜びのあり方が問われてまいります。