暮らしの中の仏教語
 
「上品」 (じょうぼん)

 言葉づかいや服装などに品位・品格のない人のことを私たちは「下品(げひん)な人」と表現します。しかし、この下品を「げぼん」と読むと、意味はまったく異なってきます。

 もとは『観無量寿経』という経典に出てくる言葉で、浄土に往生する者を、その生き方に応じて、上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)に分類したものです。いくら服装を整え、言葉づかいに気をつけていても、上品(じょうぼん)とは言いません。

 仏の教えにどれほど誠実であるかどうか、これが上品と下品の分かれ目です。どんな命も決して傷つけない、人を自分の都合で利用しない、決して人をだましたり欺いたりしない。これらが仏の教えに生きる最初の出発点です。現代は経済効率を優先し、環境破壊を繰り返し、命までもが利用価値で計られるようになっています。仏の教えからは、全くもって遠いと言うほかはありません。上品どころではないのです。お互いに傷つけあう生き方は、まさに下品(げぼん)そのものです。

 ところが、この下品に注目されたのが親鸞聖人です。それは下品の姿に、偽らざる人間の現実を見られたからです。
 お互いに傷つけあいながらも、なお、人として生きる道はあるのか、これが親鸞聖人の抱えられた問いでした。下品の者は下品としての愚かさを教えられて、はじめて生きることの悲しみを知る。そこに、仏の教えを拠り所として歩んでいく人生が始まります。
 親鸞聖人が「悪人成仏」を説かれた根拠もここにあります。それは、悪人でも良いのだ、と開き直ることではありません。それなら「逆切れ」になってしまいます。お互いに傷つけ合うことの愚かさを知るからこそ、いよいよ仏の教えを聞いていくのです。その教えを通して、自分を見つめ、この世の在り方を問うていく眼を得ることができるのです。

 自分が上品(じょうひん)か下品(げひん)かとこだわるよりも、もっと大事なことでなのです。