暮らしの中の仏教語
 
「煩悩」 (ぼんのう)

 大晦日の夜、寺院では梵鐘が百八回撞(つ)かれます。世間一般では百八の煩悩が除かれるといわれる除夜の鐘です。

 煩悩の原語は「クレーシヤ」で「苦悩」、「汚れ」。身を煩わせ心を悩ますということで煩悩と漢訳されています。仏さまの智慧に目覚めることを妨げてしまう障碍です。目覚めを妨げている原因が煩悩ですので、ありきたりの考えでは、煩悩を無くしていけばいい、それが修行であると考えてしまいます。原因に気づいてそれを除去すれば問題は解決すると私たちは習慣的に既に思っているからです。ところが、煩悩は一生涯この身につきまとっていて無くなることはありません。そこで、無くすにはわが身の消滅、死を待つしかないことになります。しかしそれでは、今この身を生きる私たちには縁遠い話になってしまい、煩悩は意味を開きません。では一体、煩悩とは本来何であり、私たちにとっていかなる意味を開くのでしょうか。

 親鸞聖人は煩悩をわが身のこととして丁寧に受け止め、釈尊の願いに回帰されています。人間は自分を大切に生きたいと願いながら、生活に振りまわされたあげく、人生を捨てて終ろうとします。そのように、わが身を縛り人間として生きる道を閉ざしているものは何なのか。源信僧都のお言葉にそれを尋ねておられます。

 「煩悩にまなこさえられて/摂取の光明みざれども/大悲ものうきことなくて/つねにわが身をてらすなり」(『高僧和讃』)照らしてくださる如来の光明への讃嘆と、照らされて知らされるわが身のすがたへの懺悔です。私たちは日ごろ、蹟きの原因をわが煩悩のゆえであるなどとは思っていません。境遇の悪さや能力の無さなどの所為にして人生を結論づけます。

 ところが実はそのようなあり方を如来は深く悲しまれ、「煩悩具足の凡夫よ」と呼びかけておられるのです。何かの所為にして生きるしかない私たち。その事実を悲しく見つめ呼びかけておられる大悲の深さ。そのお心に出会うとき、煩悩の身の事実に気づかされます。すべてを自分の都合に取り込む貪りの心、思い通りにならなければ自暴自棄になる怒りの心、その根っこには、如来の呼びかけに鈍感であるわが身が知らされてくるのです。

 煩悩具足の身とは、わが身をどうしようもないと否定する言葉ではありません。逆に、それは限りなく如来のお心を受け入れていく器であり、いよいよ如来のお心の真実が知らされて、どこまでも育てられて生きるわが身を喜ぶのであります。さわり多き煩悩具足の身に如来のお心が響いてきます。そのとき、煩悩が華開くのです。