暮らしの中の仏教語
 
「歓喜」 (かんぎ)

   スタジアムで素晴らしい試合を観戦した時、あるいはコンサートで見事な演奏を聴いた時、私たちはそのすばらしさに歓喜します。そして、新聞では「歓喜に沸いた」と讃えます。「歓喜」とは、そろって歓声をあげて非常に喜ぶ、大変な喜びを意味します。
 しかし世間でいう歓喜は、悲しいかな、つかの間のよろこびです。感動の一時が終わって日常にもどれば厳しい現実が待ちかまえています。余韻は残ります。しかし、それも消えていきます。戦争で勝利したときの熱狂する感動も同じです。その勝利には、勝者、敗者を問わず必ず大変悲惨な問題が立ち現れてきます。しかし、そうであるにもかかわらず、人は感動にあこがれ、求めつづけるのです。感動の根が幻想であれ、それに狂喜したいのです。怖いですね。

 では、つかの間の感動でもなく、犠牲者もなく、幻想でもない感動はどこにあるのでしょうか。そこに人間として深い問いが生まれます。実はその問いに応えて仏法は感動の在りかを明らかにして、それを「歓喜」と名づけました。仏さまは感動と悲嘆のはざまに引き裂かれた人間の悲しみを深く受け止めておられるのです。

 「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり」あらゆる人々が、(諸仏が称えまします南無阿弥陀仏の)名号を聞いて信心を「歓喜」する。まさにその信心において、すでにして阿弥陀さまの真実のお心、私たちに向けての久遠のご回向(本願の恵み)がはたらいていたのです。

 まず、歓喜とは「信心」を歓喜することであり、お念仏の呼びかけに出会って生きる身を今、ここに、たまわった喜びなのだと教えられます。私たちは日常、感動の世界を勝手に思い描き、未来に期待し夢見て、今を生きています。
 しかしそれは私たちの期待であり夢であるかぎり、むなしく、はかないものであり、だから不安なのです。ところが、そのような、かたくなな私の思いを破って呼び覚ましてくださっている「仏のお心」(至心)があったのです。真実心。智慧の光に照らされて生きる「わが身」の発見でもあります。そのとき、道なき者に道が開かれてまいります。しかも、仏陀釈尊をはじめその道に出会って生きてこられた無数の諸仏方が称え証明し、私にその道を歩めと勧めてくださっている道なのです。その道に立つとき、どこまでも召され育てられ、生きられてあるお浄土がすべてに平等に開かれていることに気づかされてまいります。
 したがって、歓喜、つまり真の感動とは、つかの間の感動でも勝者の雄叫びでもなく、ましてや幻想世界への狂喜でもありません。このちっぽけな私が、はからずも広大な仏道に出遇い、限りなき道の第一歩を踏みだし得たとき、「道、ここにすでにあり」といただく確信なのです。