暮らしの中の仏教語
 
「世間」 (せけん)

  「世間は怖い。世間の目が気になる。世間体がある。渡る世間に鬼はなし。世間は広いようで狭い」など、この言葉は様々な場面で使われます。
 このように、私たちが日頃「世間」という言葉を使う時には、入びとが生き合っている「場」と、同時にその場を生きている「人びと」という二重の意味があるように思われます。混然としていて特に意識するわけでもないのですが、一つの言葉で二つの領域が同時に意味されているようです。

 実は仏教では一つの世間を「衆生世間」と「器世間」の二世間として受けとめてきました。
 衆生世間とは、つまり生きとし生けるものとしての世間です。自分、夫婦、家族、地域や世界中の人びとなどです。
  また器世間とはその衆生を入れている器、つまり山河、大地を含めた生活領域、場を意味しているのです。そこにおいて生きとし生けるものが関係して生き合っているのですから相互関係としての場ということが言えます。
 
 つまり世間という語は、私たちの生存は衆生と環境から成り立っていることを示しているのです。言い換えれば、そこに息づいている衆生を抜きに世間はなく、同時に環境を無視して世間もありません。環境問題でもこの視点が欠かせません。

 ところでこの「世間」の原語は「ローカ」で、「壊れるもの」が原意です。仏さまの目からすると世間は壊れるもの、当てにならないものなのです。  
 聖徳太子の説として「世間は虚仮であり、唯仏のみ真である」というお言葉も伝わっています。また親鸞聖人の言葉にも、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」とあります。
 日頃、私たちは、いつも自分の思い「分別」の確かさを確信しています。真実よりも自分の固執した考えの間違いの無さを信じてしまい、わが身の事実をありのままに受けとめずに、思い描かれる自己と世界、つまり世間に生きようとします。しかし悲しいかな、世間のなかには世間自体をまことの心で見通していく視点が見つかりません。だから、混乱ばかりなのです。

 そこでこの人間の抱える根本的な問題を悲しんでくださって、如来は私たちに世間を見通す視点を与えてくださったのです。それが、お念仏なのです。
 念仏は世間を超えて世間にはたらきかける如来の呼び声。お念仏申すなかで身に染みて知らされる世間とは「煩悩具足の凡夫(衆生世間)」「火宅無常の世界(器世間)」。仏の光に照らされた世間の真実の姿なのです。私たちは、この目覚めから、再度世間に挑戦して世間を生き通す歩みをたまわるのです。