暮らしの中の仏教語
 
「三昧」 (さんまい)

  読書三昧、仕事三昧、釣り三昧・・など日常よく「三昧」という言葉を使います。 ここで三昧とは、物事に熱中して、その物事だけを行うことを意味します。
 しかし、夢中になっても、いつしかそれも思うままにならず、また飽きてしまいます。私たちは、何か大切なことを置き忘れたままでこの世に生を受け、そのままずっと今まで生きてきたのではないかと思われます。しかも何を置き忘れてきたのか分からないのです。本当に思い起こさなくてはならないことを明らかにしなくてはなりません。
 そこに三昧というテーマが仏教に出てくる意味があるのです。

 三昧とは「サマーディ」というインドのことばを音写したもので、「いっしよにする、結合する、調和に導く」、さらには「ある対象を凝視する」「瞑想する」などが原意です。漢訳では「定」と表します。心を静かに、出会うべき真理に統一して安定させ、正しく物事を見ることをいいます。したがってこれは仏さまの智慧の領域のことであり、出会いに応じて数多くの三昧が語られています。

 その中で特に、仏の仏たる根本の三昧を普等(ふとう)三昧といいます。これは、仏さまがどのような衆生をも普く分け隔てなく仏として発見し、平等に出会える世界を見いだす三昧をいいます。仏はこの三昧に身を置いて、すべての衆生をあたかも一子のように憐れみ念じてくださっているのです。

 しかし、心が乱れる私たちは、自分の力でそのような三昧に入ることはできません。では、三昧とは私たちにとって何であり何を意味するのでしょうか。
 『仏説観無量寿経』に「一一(いちいち)の光明遍く十方世界を照らす。念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。(中略)この事を見れば、すなわち十方一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもってのゆえに「念仏三昧」と名づく」とあります。
 諸仏とはいかなる世界においても私たちを念じ、平等に呼びかけてくださっている仏さまであります。その諸仏のお心に私たちが目覚めるとき、その私に仏を念じる心が開かれてまいります。諸仏のお心に出遇って生きる身になること、これが念仏三昧であり、生活の中でお念仏が身についてくることであります。