暮らしの中の仏教語
 
「実際」 (じっさい)

 理論と実際とは容易に一致しないものです。そこで頭で考える想像や理論と眼前の現実とが相違するとき「実際は」とか、「実際の所」などと言って事実を語ります。

 この実際という語は、仏教用語でインドのことばブータ・コーティの訳語です。ブータは「ものごと」のこと、コーティは「きわ」「極み」を意味します。そこで「ものごとの極み」「存在の極限」を言い表す言葉として「真実の際」すなわち「実際」という語が考案されました。

 鳩摩羅什が訳した『大品般若経』に「実際品」という一章があり、事象のもっとも真実にして究極的な境界を「実際」と名づける、と説いています。
 その「実際」は思慮も言辞も及ばないので「如」といい、それはまた事象の本性であるから「法性」とも呼ばれます。龍樹菩薩の著作『大智度論』では「この三(如・法性・実際)は、みな諸法実相の異名」と示されています。従って、実際とは「すべての事物のありのままの姿」(諸法実相)のことで、「あるがまま」の事実を「あるがまま」に知るのが実際なのです。

 ところが、この意味が転じて理想的なものを排除し、ドロドロした現実に即して事を処理する「実際的」という言葉が生まれました。この場合の「実際」は「現実」や「実用」と同義に用いられ、自己中心の立場から離れることのできない凡夫は、世界の一切を自分に都合のよいように見ます。

 そのような凡夫が「あるがまま」に「実際」を窮め尽くすことなど到底不可能です。そこで親鸞聖人は、凡夫の無駄な努力を捨て「ただこの高僧の説を信ずべし」(「唯可信斯高僧説」『正信偈』)と説かれたのでしょう。