暮らしの中の仏教語
 
「流転」 (るてん)

  あたかも風や波にもてあそばれる小舟や浮き草のような「流転の人生」を描いた小説や映画に私たちは共感し感動します。私たちの人生も、川の流れに身をまかせ流れ流れて彷徨います。どこに帰ればいいのでしょう。

 ところでこの「流転」という言葉は仏教語で、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道という迷いの世界を、生まれ変わり死に変わり、果てしなく繰り返す、生きとし生けるものの生存のあり方をいいます。輪廻ともいい、流転輪廻、生死流転などと申します。

 曇鸞大師はこの流転の姿を、無内容でからっぽで(虚偽の相)、あてどなく繰り返して(輪転の相)、どこまでも終わり無きありさま(無窮の相)であると押さえられ、それはちょうどシヤクトリ虫が瓶や壷の口の縁を、同じ所をグルグルといつまでもはい続けるようなものだと喩えておられます。私たちの人生は一面、終わりのない日常を送り、その無意味さゆえに悲鳴をあげ、最後は絶叫で終わりそうです。

 しかし、大師はさらに続けて、カイコがほかでもなく自らの吐いた糸によって繭(まゆ)を作って、その自分の作った狭い繭の世界がすべてであると思い込んでいるようなもの、という喩えを出されます。無意味さに悲鳴をあげてしまうのは、運命や境遇の所為ではなく、実は自分自身の造り続けてきた業によっての事なのだと押さえておられます。

 さらにその本質を、「長く大夢に寝)て悕出(けしゅつ)を知ることなし」と指摘され、人間は大変な思い込みにずっと眠りこんでいて、その閉ざされた世界を出ようなどと願ったこと(悕出)もないと語られます。 人間は「結局何も無いんでしよ。もうどうでもいいんです」と決め込んで、人間として問わなくてはならない最も大切な課題を放棄して居直ってしまっていると指摘されるのです。

 しかし実は、有り難いことには、流転する私たちを深く悲しみ、じっと見ていてくださり、浄土に生まれさせずにはおれないと願ってくださっている阿弥陀さまの大悲のお心が、この私にはたらいている事実を、大師は語りかけてやみません。人生は長さではなく、出会いです。
 流転の事実を前にして、絶望だといって人生を締めくくるわけにはいきません。逆にその事実を丁寧に受け止めて、阿弥陀さまにたすけられていく道に出会い、生きよと勧めておられます。

 流転の人生は単に人生の無意味さを語るのではなく、それを超えて生きる道が浄土往生の道として開かれてあることを指し示しているのです。