暮らしの中の仏教語
 
「不退転」 (ふたいてん)

 選挙が行われるとき、立候補される多くの方々が異口同音に言われる言葉があります。「内外の諸問題に対しては冷静沈着に、不退転の覚悟で臨む決意でいる」という言葉です。「不退転」。退転しない。退き、後戻りしない。この不退転という言葉は、意志をかたく保って、どんな荒波が押し寄せようとも決して屈しないことの意味で使われています。

 ところが、日ごろ簡単に使っているこの言葉は、実は仏教語です。人生で本当に課題とすべきことが語られている、仏の智慧のことばなのです。

 さて、私たちは一人ひとりそれなりにがんばって生きていますが、よく途中で挫折してしまいます。挫折しない人など実際にはいません。人生の壁が待ち構えていて、往く手をはばみます。第一の壁です。乗り越えなくてはなりません。形こそ違え、人はみなそれぞれの状況の中で、立ちはだかる壁を乗り越えて生き続けたいと願うものです。その限り、人はみな求道者といえましょう。壁を乗り越えるためにこそ、確かな道を求めていこうとするのです。
 しかし道を求め始めると、これまたいろんな道があるので、すべての道を一つ一つ確かめることなど実際にはできません。しかも自分の思いに叶った道かどうかは歩んでみた結果を待たないとわかりません。
 未来は不透明で道は不確かなまま、空しく時は過ぎていき、飽きて疲れてしまいます。「もう、いいや」と諦めて後戻り。しかし後戻りするにも、逃げ込む所がなくてはなりません。かつて抜け出そうとしていた逃げ場所、自分さえ救われればいいという言葉、そこに後戻りしたくなるのです。
 自分にとって聞き心地の良い教えは魅惑的です。その中に戻りまどろんでしまいたくなるのです。我が身に居座る。これこそが「退転」であり、人生の危機、第二の璧なのです。その壁も乗り越えなくてはならない関所なのです。
 しかし、退転して居座りの我が身に後戻りしたのですから、我が身の内をいくら探しても退転という壁を乗り越える縁はどこにも無いのです。

 乗り越えるには、すぐれて、我が身を超えた如来の本願力との出遇いによるほかありません。いいかえれば、この我が身に仏法を「うやまう心」(恭敬心)が開かれることによるのです。つまり、先立ってそのような課題に生き、歩むべき道のあることを教えてくださる善き師、善き友の呼びかけ(名号)の中に賜る「うやまう心」こそが、退転を乗り越える不可欠の要なのです。出遇ってみれば、我が眼前に、善き師、善き友の歩まれ、指し示してくださる一筋の道がはてしなく広がっていたのです。

 出遇いを通して恭敬心に生きる身にさせていただいたのです。居座りを超えて、限りなく教えられ育てられていく確かな「不退転の歩み」が、今、ここに始まるのです。