暮らしの中の仏教語
 
「境界」 (きょうがい)

 国と国との境界(きょうかい)は国境。しかし、空の上から見た地球には、国を分ける境界線などはどこにも見ることはできません。地球の上に様々な境界線を引いてきたのは他ならぬ私たち人間です。

 さて仏教では「境界(きょうがい)」と読み、略して境ともいいます。
境界・境にはいくつかの意味がありますが、今回は六境を取り上げることにします。
 
 六境とは人間の認識対象のことで、人が眼・耳・鼻・舌・身・心によって感覚し認識する六つの対象のことを六境といいます。これらの六境は自己存在と密接に関係していると説かれ、例えば 自分好みの音楽は心地よい音として聞こえますが、他の人にとっては必ずしもそうではありません。反対に、自分には苦手な香りでも、それを好む人もいます。

 このように認識対象は、自己を離れて単に客観的に存在しているものではなく、自己と密接に関係して存在しているのです。しかし人はそのことに気付かず、物事は自分を離れて客観的に存在していると思い、その上で好ましい対象は受け入れ好ましくない対象は排除しようとします。

 このように見てくると、国や私有地の境界線だけではなく、様々な物事に種々の境界線を当然のように引いて、受け入れや排除を行っている人間の姿が浮かび上がってくるのではないでしょうか。そして自分がする物事の受け入れや排除が線引きであると同様に、他者がなす受け入れや排除に対して自明のごとくに沸き起こる称賛や非難、これもまた自己による線引きであることを知るべきなのです。なぜなら、万事は自己存在と密接に関わりながら、褒めるべきこととして思えたり、また詰(なじ)るべきこととして思えたりしているからです。

 私たちが当たり前のように認識していることは、今一度根本から問い直す必要があるようです。境界(きょうがい)という仏教語は、そのことを教えてくれています。