暮らしの中の仏教語
 
「凡夫」 (ぼんぶ)

 通常「凡夫」は「凡人」「普通の人」という意味で使われます。さらに「どうせ凡夫ですからね」と自分を卑下したりします。そこには「劣っている」という人間の価値づけがすでにあるようです。これでは、「凡夫=ダメ人間」となってしまいます。

 もともとはインドの古い言葉で「プリタッグージャナ」と言い、「まったくバラバラで生まれてきたもの」という意味です。漢語では「異生」と翻訳されました。人間は生まれながらにしてバラバラ(異)な関係を生きなくてはならない。凡夫とは誠に「悲しい存在」であることを言い当てた言葉です。

 しかし、なぜ人間は一人ひとりであり続けるのか、人間自身には分からないのです。分からないから相手や環境や生まれのせいにしてしまいます。しかし、それでは存在が晴れないのです。そこで、表面的な人間というあり方がさらに照らされて、その根元にまで光が当たります。それは、闇の中の自分であることに気づかず毎日を生きてきた人間の抱える「罪業」にあったのです。

  『仏説観無量寿経』(ぶっせつかんむりょうじゅきょう)のご説法に、わが子アジャセに反逆され苦しめられたマガダ国の王妃イダイケが登場します。
 彼女は偉大なる王妃であり賢夫人でありました。ところがお腹を痛めて生み、これだけ愛してきたわが子によってなぜ反逆されねばならないか、その事実に納得できず悲嘆の中、仏陀釈尊の前に身を投げ出して問うのでした。
 すると仏陀はイダイケに対して。「汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にして未だ天眼を得ず、遠く観ることあたわず」と呼びかけになられます。イダイケよ、あなたは凡夫なのです。意志は弱く、あらゆるものを見通す眼を得ておらず、広く深く豊かな仏の世界が足下にまではたらいていることに気づいていないのです。だから、「どうか、その我が身の事実に気づき、その事実を荷う人間になってください。」と仏陀は我が身に出遇えぬイダイケをみそなわし、悲しみ、そして願ってくださっていたのです。
 ここで、凡夫とは罪業を生きるものという意味に深まってまいります。ダメ人間ではないのです。まことに、仏に呼びかけられ仏の悲しみにふれてこそ出遇う「罪業深き我が身」を言い当てて下さった言葉だったのです。 

 聖徳太子は十七条憲法の中に「我ら共に凡夫」と掲げていらっしゃいます。一人ひとりの私たちは、実は共に凡夫なのです。共に凡夫という課題をになう「善き友」なのです。