暮らしの中の仏教語
 
「善哉」 (ぜんざい)

 「善哉(ぜんざい)」というと、砂糖をたっぷり入れて、真赤な小豆を煮込んだ甘い汁に、真白なお餅を浮かべた食べ物をほとんどの人が想像します。

 しかしもとは、お釈迦様さまが、真理にかなっていることを讃(たた)える時に、「善きかな」とおっしゃられた言葉として、経典によく出てくるものです。あの甘い食べ物とは、およそ関係がないようです。

 この「善哉」という言葉で第一に思われることは、親鸞聖人が一番大切にされた経典である『仏説無量寿経』の教えが、この言葉から説かれることです。
 覚(さと)りを開いた仏弟子でなく未だ欲を離れることができない阿難(あなん)がある日、今日のお釈迦様は人間としてのお釈迦様と違って、我々を救うために、真如(理)から来てくださった如来としてのお徳で輝いているのはなぜでしょう、とその尊いお姿に驚いて問うのです。お釈迦様は、阿難が、苦悩する一切の人々の深い悲しみを代表して、それを救う如来と仰いだことを喜ばれ、 「善哉、阿難。問いたてまつるところ甚(はなは)だ快(こころよ)し」と、その問いを讃えるのです。そして今日こそ、お釈迦様が如来としてこの世へ出られた本当の意義を説く時が熟したと悦(よろこ)ばれ、その如来の究極の目的が、一切の人々を救う阿弥陀如来の本願と南無阿弥陀仏の名号を説くことにあったと、明らかにされるのです。

 阿難尊者(あなんそんじゃ)のこの問いによって、お釈迦様の仏教が念仏として世界中の苦悩する人々を救う道となり、だからこそ同時にまた仏教があらゆる人にとって真理ともなったのです。その大切な仕事を果たした阿難尊者を、お釈迦様は「善哉」と讃えられたのです。