暮らしの中の仏教語
 
「悲願」 (ひがん)

  今年の夏の全国高校野球大会は大阪桐蔭高校の優勝で閉幕しました。全国の高校球児が覇を競って闘い、最後に一校が全国優勝を勝ち取り、長年の悲願を達成します。だれもが惜しみなく拍手をおくりその栄光を称えます。しかしそのそばでは、惜しくも敗れたチームが悔しさに歯を噛みしめます。このように、人間の抱く「悲願」は、どうしても実現しようと心から念じている「悲壮な願い」を意味します。
 
 人間の思いに根ざした願いなのです。したがって、この人間の悲願は成就すると勝者が誕生する一方、同時に必ず敗者が生み出され、そこに人の世の不幸が立ち現れるのです。この矛盾をいかにうけとめていけばいいのでしょうか。いずれかが善であり、いずれかが悪であると簡単に決め込むことはできません。

 ただ、この矛盾を深い悲しみとして抱きとめてくださる世界があるのです。それが如来の悲願です。「悲願」とはもともと仏教語なのです。かならず「如来の悲願」「菩薩の悲願」として表現され、私たちの日常の「悲願」とは区別されます。

 悲願の「悲」は如来の悲しみであり、引き裂かれた心、どうにもならない現実への悲哀です。私たちが自分の目的のために是が非でも達成しようとする悲壮な心とは質を異にします。
 如来はどのような者であれ私たちの姿を見そなわし、私たちの出口なき悲惨な姿に御身が引き裂かれ、私たちが救われなかったならば如来ご自身も如来として生きていけないと悲しまれる心です。如来ご自身が理想的な世界にいて幸せと歓びに満ちあふれているとしたら、本当に私たちに寄り添うことはできません。
 如来の「悲」とは、如来ご自身の救われざる悲しみにおいて私たちに寄り添う心、私たちと一つになる心です。

 つぎに悲願の「願」とは、その「悲」を根拠として私たちにはたらきかける如来の「願い」です。私たちはわが身の現実や未来に立ちはだかる大きな壁の前で呻いています。如来は、その呻きに寄り添ってくださって、壁を乗り越える道がお念仏の道として開かれていることに、どうか気づいてくださいと私たちに「願」つてやまないのです。

 「しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときのわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり」(『歎異抄』第九条)如来は、かねてより、私たちのありのままの姿をご存知なので、「汝は煩悩具足の凡夫なのです」と呼びかけてくださっているのです。私たちは、その呼びかけの中に、わが身の煩悩の根深さ、割り切れなさ、悲しみの深さを知らされ、人間として本当に目覚めなくてはならないことに無関心であったわが身を知らされるのです。
 如来の悲願なしに、悲しみの自覚はありません。