暮らしの中の仏教語
 
             「自業自得」 (じごうじとく)

  「ああ、僕はどうしていつもこうなんだ。ダメだな、失敗ばかりして」「自業自得でしょ。あなたが自分で蒔いた種。その結果は自分で刈り取るしかないでしょ」よく言われたものです。

 しかし、その種とは何なのか、いつ蒔いたのか、しかも、この自分が意図して蒔いたなど少しも思えないのです。だから「自業自得でしょ」と言われても納得できず、思わず誰かのせいにしたくなってしまいます。また、その一言で今の自分が決められてしまっているようで、暗くなります。

 しかし、自業自得とはもともと人を暗くしてしまう言葉なのでしょうか。自業は自らの業。自得はその結果を自分が受け取ることです。もちろん仏教語です。ところで、「業」の原語は「ヨミカルマ」で、行為を意味します。私たちは、身を動かし(身業)、ことばを発し(口業)、あれこれと考えて(意業)に縛られているように思われるからです。

 しかし、人間の根本的願いはその業の束縛からの自由、決め込まれてしまう自分からの自由です。仏教の歴史的な課題もそこにあったのです。仏教で明らかにされる業の業たる意義は、意識にのぼる表層的な業(表業)のみならず、その奥底にずっとはたらきつづけている意識下の深層の業(無表業)にあります。深層の業はいかに反省しても日ごろの心では気づきません。だから納得できず暗くなってしまうのです。

 そこに、仏の教えに出会う大切さがあります。「自力諸善のひとはみな 仏智の不思議をうたがえば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞいりにける」〈正像末和讃〉自分を過信するひとは、仏の智慧を疑い、広大なお育てをまったく受け容れていないので(自業)、孤独の牢獄に苦しんでいるのです(自得)。これこそが自業自得の道理なのです、と如来は呼びかけてくださっています。

 したがってその呼びかけにわが身の深層が呼び覚まされるとき、その道理に納得してわが境遇を生きる身になるのです。自業自得とは、反省を要求するような狭い言葉ではなく、より深く、仏のお育てに鈍感であるわが身に気づき、その必然の道理のままに、おおらかにわが境遇を引き受けて生きる智慧なのです。