暮らしの中の仏教語
 
             「阿修羅」 (あしゅら)

 かつて向田邦子さん脚本による『阿修羅のごとく』というドラマがありました。テーマは四人姉妹とその父母、それを取り巻く人たちのごくありふれた生活の中で見えてくる猜疑、嫉妬、不信、偽り、割り切れない情念の根深さ、正体のわからない何かと戦い続ける激しい闘争心。我が内なる阿修羅です。

 さて、この阿修羅という言葉は、実は、インドの古い言語に由来しています。阿修羅の「阿」は言葉の頭につけてその意味自体を否定する接頭辞、「修羅」は「神」、漢語で「天」と表現されます。だから阿修羅は「非天」と翻訳されています。我れ天に非ず、天を否定する者なり、です。ここで「天」とは神、民族の最高権威です。したがって阿修羅とは民族の最高権威に対して、飽くことなき闘争心を生きる者であります。

 もともと阿修羅は天の仲間であり善神であったのです。ところが、天界の最高権威、善神インドラ(帝釈天)と闘争する羽目になり、敗れた結果、天界を追われます。そして悪神になっても、なおもインドラ神に対して闘争をし続けるのです。圧倒する権威に対して疑心暗鬼。形相もすさまじい、激しいものになってしまいます。

 ところがその悪神、阿修羅も、仏陀からあたたかく受けとめられ、仏教に生きる身になるのです。善神・悪神という根拠なき執着に振り回されて善悪の闘争に明け暮れていたのですが、幸いにも仏法に出遇うことによって、初めて我が身自身に立ち帰ること(信受)ができたのです。

 つまり、これまで「阿修羅道」を生きてきた我が身自身が問い直されたのです。終わることなく闘争し続けざるをえない業の悲しみの深さに気づき、それを問い直し、より深く歩み始めたのです。「仏道を生きる神の誕生」であります。

 奈良の興福寺に有名な三面一体の「阿修羅像」が安置されています。本来は闘争してやまない神なのですが、お顔の一つは、怒りの顔ではなく、眉を寄せた悲しげな表情をしておられます。何を悲しんでおられるのでしょうか。それは、どこまでも権威に屈しまいとして、なおも闘い続けてやまない我が身の「呻き」からの悲しみであり、さらにその奥にひそむ、根拠なき権威に限りなく振り回され、我れを忘れはてていた自身の「鈍感さ」、その悲しみであります。  

 阿修羅は、権威を拒否する形で実は権威に従属していた我が身に目覚めたのです。初めて、我が身に自立したのです。「仏法との出遇いによる神の自立」です。以後、阿修羅は仏法を讃える守護神となります。