暮らしの中の仏教語
 
             「邪魔」 (じゃま)

 「あいつは、俺のやることにいつも文句ばかり言って邪魔をする」「通路にあんなものを置くと邪魔になる」。自分の身の周りに「邪魔な人」がいたり「邪魔な物」があって、思い通りにならないのが私たちの日々の生活ではないでしょうか。

 もともと「邪魔」の「魔」という言葉は仏教語です。魔とはインドの言葉で「マーラ」で「魔羅」と音写します。この魔という字は、それまで使われていた「鬼」が「麻」の発音と合体して「魔」という漢字がわざわざ作り出されたともいわれます。この魔は、殺す、破壊する、邪魔する、障碍する、誘惑するなどが原意です。人間が目的に向かおうとする歩みを邪魔し碍げ本来人間として歩むべき道を迷わせ、自分自身を破壊しダメにしてしまうものであります。

 ところで、世の無常に悩まれて出家されたお釈迦様は、6年間の修行生活を捨てて、菩提樹の下にお座りになり、人間の苦悩の原因である心の闇(無明)をうち破り、さとりを得られました。このお釈迦様が初めて開かれたさとりを「降魔成道」といいます。魔を降伏させたとき(降魔)、そこにそのまま、歩むべき道が成立したこと(成道)を指し示している教えです。つまり、魔はお釈迦様の修行を妨げる「心の悪魔」を意味するものです。お釈迦様にとっても、自分の心の中に潜む魔(煩悩)の解決は、大変な問題だったのでしょう。

 お釈迦様は、わが身を縛っている苦悩の原因は、ほかならぬ自分自身にあることに目覚められた。つまり魔の正体を発見(正覚)されたのです。すると魔は手出しができず、力を失い退散します。魔を殺すのではなくその正体を見破って力を失わせる。これがお釈迦様の目覚めであったのです。では魔の正体とは何であり、何が歩みを碍げているのでしょうか。それはわが身の内に気づかずにはたらいている無明・煩悩にほかなりません。

 宗祖親鸞聖人も、お釈迦様の教えを「無明の闇を破る智慧の光」(『教行信証』)であると讃えておられます。そういう意味では、「邪魔」は私たちの外側にあるのではなく、私たちの心の内側、つまり、自分の都合で「邪魔な人」や「邪魔な物」を作りだしてしまうような、真実とはかけ離れた生き方をしている、私たち自身の暗い心のことをいうのです。