暮らしの中の仏教語
 
             「大衆」 (たいしゅう)

 近所に「大衆酒場」という暖簾(のれん)の飲み屋さんがあります。以前は流通していた「大衆浴場」「大衆芸能」「大衆文学」など、今ではあまり目にしなくなりました。実は、この言葉はもともと仏教語だったのです。

 三帰依文(さんきえもん)には「僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍(むげ)ならん」と記されています。(正確には「だいしゅう」と発音します)。仏教用語での「大衆」は仏法によって調和のとれた人々の集まりという意味です。

 ある先生が「私は一切衆生(いっさいしゅじょう)の中のひとりだが、同時に、一切衆生を代表するひとりでもある」と言われました。大衆の中の一人だということになると、「その他おおぜいの中のひとり」という意味になり、なんだか元気が出てきません。「自分なんかいなくても世の中にはまったく関係ない」という感情がわいてきます。
 しかし、大衆を代表するひとりだということになると、ちょっと違います。ご飯を食べるのも大衆を代表して食べているのかもしれない。腹を立てるのも、大衆を代表して腹を立てているのかもしれない。自分は大衆を代表して生きているのかもしれません。こうなってくると、生きることに前向きになってきます。
 
 このちっぽけな自分に、まったく愚かしい自分に衆生を代表する意味が与えられる。代表する資格なきものに、代表する意味が与えられる。この醍醐味(だいごみ)が「大衆」という言葉の響きにあるようです。