暮らしの中の仏教語
 
             「地獄」 (じごく)

 悪いことをすると死後に地獄に堕ちるぞ。これは、私たちが社会を生きていくうえで善いことを行えという道徳的な教えとして受け取っています。しかしここであらためて、地獄とは何ですかと尋ねられると、誰も知りません。大変苦しむところというくらいです。よく分からないのですが怖いのです。

 「地獄」これは仏教語で、インドではナラクといいます。劇場の舞台下の空間のことを奈落(ならく)と呼ぶのもそれが語源です。地獄の「地」は最下底、「獄」は拘束。生きている一番奥底で人間を縛っているあり方です。仏様は、私たちに、人間はいつも根底に地獄という問題を抱えて生きている。だからその問いに気づいて、克服すべき課題として受け止めて生きるようにと、呼びかけてくださっています。

 等活地獄、焦熱地獄、叫喚地獄……。いろいろですが、中でも最も奥底の地獄は無間地獄です。「無間」とは、「波がない、絶え間なく続く」という意味で、間断なく大変激しい苦しみを受け続けていくということです。「我、今、帰する所無く、孤独にして同伴無し。」(『往生要集』)これは、無間地獄の炎の中にスーツと堕ちていく中で、今になってやっと、わが身の事実に気づいた時の言葉です。孤独で同伴者がいない……。日ごろは気づかないのですが、人間は生存の一番奥底にこの問題を抱えて生きているのです。

 なぜそうなのか。人間はそれを境遇のせいにします。そして境遇を恨みます。しかし実は境遇のせいではなく、その人自身に「帰する所」がないからなのだと教えてくださっているのです。
 かつてお釈迦様の時代に、マガダ国の王家に、わが境遇を呪い、父王を殺してしまったアジャセという太子がいました。父親殺しはその罰として無間地獄に堕ちて永遠に責め苦を受け続けることを彼は聞いており、大変に恐れます。しかし、遍歴の末、仏弟子ジーヴァカの勧めによってお釈迦様の慈愛あふれるご説法に出遇います。そこで彼は「我、今、仏をみたてまつる」と、今や仏様と初めて出会うことのできたわが身を感動をもって表明します。彼には帰する所、仏様がずっと待っておられたのです。さらに彼は、「自分は無間地獄にあって永遠に苦悩を受けても、それを苦としない」と言い切るまでの人間に生まれ変わります。

 地獄は、その中にあって帰すべき仏様を見いだすことによって、自身の存在を果たし遂げる道場となるのです。地獄を生きることができるのです。