暮らしの中の仏教語
 
             「畜生」 (ちくしょう)

 「こん畜生(ちくしょう)!」怒ったときや悔しいときに自分自身や他人をののしって思わず発してしまうことばです。しかし、このことばは本来仏教語であって、人生において克服しなくてはならない大事な課題を明らかにしてくださっているのです。

 仏教では「六道」ということがいわれます。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道のことで、造る罪の結果として生きなくてはならない六つの迷いのあり方で、畜生道はその一つです。「畜生」とは、「横生」「傍生」と漢訳されます。真っ直ぐに生きるものに対応することばで、生きるべき道理の前を横切り、傍らに置いて生きるものの意味です。

 『往生要集』(源信僧都)に「畜生道とは鳥類、獣類、虫類で、強者・弱者が互いに害し合い、食い合って安心できず、昼夜なくいつもおそれ、おどおどし、身体をつながれて、たたかれて重荷を背負って生きている」とあります。実に惨めです。しかし、もっと悲しいことがあるのです。

 畜生とは野山を自由に動き回る野獣というよりも家畜、飼育されている生類のことなのです。
 あるとき飼い主が牛を広い草原に連れて行き、綱でクイに繋ぎました。広い草原を前にして牛は自由になりたくてたまりません。綱をグイグイ引っ張ります。とうとう飼い主は綱をほどきました。ところが牛は広い草原を自由に走っていくかと思いきや、今まで繋がれていたクィの周りをただ回っていただけでした。
 自由を求めていたので自由にしようとしたら、周りに依存した生活に飼い慣らされていて、逆に自立できなくなってしまっていたのです。惨めという以上に、もっと悲しい問題です。

 では、なぜ人間はこのような畜生道に陥ってしまうのでしょうか。
 仏様の智慧の光は人間が気づかずにいた「愚痴」という罪を照らし出し、畜生道を生きざるを得ない人間の闇を開いてくださるのです。
 愚痴とは、わが無明ゆえに道理に生きることができずに、その結果、状況に振り回され、状況の主体者となりえず、状況を担えない罪であります。

 さらに、それにとどまらず、親鸞聖人は『涅槃経』を引用されて語ってくださっています。「「無慙愧(むざんき)」は名づけて「人」とせず、名づけて「畜生」とす」ここでは、愚痴という罪よりもさらに深く、愚痴なるわが身に無関心で、恥じる心痛む心がさらさらなきもの(無慙愧)をあえて「畜生」として教えてくださり、本来の「人」(慙愧あるもの)にたち帰ることを勧めてくださっているのです。 

 「人」は知ることが「イノチ」です。何を知りどう生きるかがお釈迦様によって広く深く説かれています。