暮らしの中の仏教語
 
             「方便」 (ほうべん)

 「嘘も方便」といった慣用句があります。私たちがある目的のために取る便宜上の「手段」で、たとえ嘘であっても許されるという意味なのでしょう。しかし、仏教語でいう方便は「嘘も方便」ではなく「有相方便(うそうほうべん)」をいいます。
 
 私たちは旅行をしようとする時、今の自分の体調を考えます。その上で、新幹線がいいのか自動車がいいのか交通手段を選びます。そのように、身の置かれた状況にできるだけ近づけて「手段」を考えます。目的を達成するためには、何よりもわが身の事実に合った「手だて」が必要なのです。

 いつの世も平和ということが切望されます。しかし、平和のためには戦争もやむを得ないといって、戦争も手段として肯定される場合があります。核ですら保有が認められることだってあます。人間の考えは至ってこのような質のものなのです、どうも私たちはわが身に気づいていないのです。このような私たちを救うために、永きにわたり救いの「手段」が考察されてきたのです。それが「方便」です。「方便」は「近づくこと」であり、さらに「手段、手だて」を意味します。救いという目的に近づく、至るための手段のことです。

 では、一体誰が方便を提示するのでしょうか。自分中心でしか生きておらず、歩むべき本当の道に出会っていないものが提示することはできません。そこで、方便を教えてくださるのは究極的には仏さまであり、仏さまこそが一切衆生を救いに導くということが自覚され、確認されてきます。そのためには、長い長い歴史の歩みがあったのです。救いの方便を説くのは衆生ではなく仏さまだったのです。

 仏さまの方便とは、仏さまの大慈悲に基づく手だてのことで、自分の思い込みに生きている私たちを「悲しみに寄り添い」、あらゆる「手だて」をもってわが身に出会ってほしいと願ってくださっているのです。また、さえぎる壁を乗り越えるには梯子という手だてが必要ですが、乗り越えてしまえば後は不要になります。しかし、如来の方便は信心そのものをあらわしています。真実信心そのものが仏様のお心なのです。いつもお育ていただいて、仏さまの思いをいただいていくのです。憂悲悩苦の人生の壁も、智慧なき私への仏さまのお手だてであったと、そのお育ての深さに頭が下がるのです。