暮らしの中の仏教語
 
             「遊戯」 (ゆげ)

  保育園や幼稚園ではお遊戯の時間があります。幼児期には「遊び」が大切であるといわれます。遊びをとおして工夫や驚きも生まれ、友達や自然とのつながりを発見します。

 ところで、「遊戯」は遊び戯れると読みます。遊戯の「遊」は遊びまわるとか、遊び人という言葉もあります。どこか遠くに遊びに行きたいと思ったりします。また遊戯の「戯」は、たわむれる、ふざける、じゃれつくといった意味に理解され、戯言などと使われたりします。このように文字一つ一つの意味から考えてみますと、遊戯とは現実に身を置かず適当に遊ぶというふうに受け取られてしまいがちです。

 しかしこの言葉は実は、仏教語なのです。
「遊戯」は「ゆげ」と読みます。遊戯の「遊」は自由自在であること、
「戯」は実は「無礙」の意で、さまたげ(礙)が無く自由であることなのです。たわむれではありません。したがって遊戯とは、あれこれと礙げばかりの状況にあっても、その真っただ中に身を置いて、いかなる礙げからも束縛されず自由に活動することを意味します。

 そのような生き方ができたら、人生、どれほどすばらしいかしれません。しかし私たちは、いつも礙げに邪魔されて不自由な境遇をうらみます。しかし、人生の礙げとは何なのでしょうか。あの人のせい?この人のせい?いろいろと礙げを考えますが、もともと何がわが身を礙げているのか、礙げの正体は何なのか誰もわかっていません。でも私たちは、わが身を礙げているものが真実何であるかを知りたいのです。知ってどこまでも自由に生きることを心底求めているのです。

 そこで、この私たちの自由を希求する願いに応えて、仏さまはこの世にはたらきかけ、人生という礙げ多き煩悩の中にあって自由に活動され(遊)、私たちそれぞれの苦悩の現実に応じて自在にいろんな姿をとられて(戯)、ご説法くださっているのです。
 どこまでも不自由な私たちの現実に寄り添い、いかなる世界をも排除しない仏さまの活動こそが真実の遊戯であり恵みなのです。