暮らしの中の仏教語
 
             「平等」 (びょうどう)

  人間は「生まれによってバラモンとなるのではない。(中略)行為によってバラモンともなる」これはお釈迦さまの有名なお言葉です。
 当時、インドは四姓制度という差別による社会構造ができていました。生まれによって生存が差別され固定化されていたのです。実際は根拠がないにもかかわらず、血筋や家柄によって人間がランクづけられていたのです。そのような縛られた社会にあって、差別の現実に根本的に異義をとなえ、人間のみならず生きとし生けるものの平等を説かれたのが、お釈迦さまであったのです。
 人間の尊さは生まれによるのではなく、その人の行為、つまり生き方によると語り、四姓の平等を説かれたのです。

 この「平等」という言葉はもともと仏教語であり、「誰に対しても同様で、共通であること」を意味します。たとえば水は上から下へ流れる、この道理はすべての人に共通であり平等です。そのように、仏法という道理は、いかなる存在にも等しくはたらいていて平等であり、その道理の前では、人間を世間の価値で色分けすることがいかに愚かなことであるかが、教えられてくるのです。

 私たちは戦後民主主義によって平等の大切さを学んでまいりました。その平等観の基礎は万人共通の「人類普遍の原理」(日本国憲法前文)によるのだと述べられています。おそらくその背景には、悲惨な戦争をかいくぐってきた人類の悲しみの深さがあるに違いありません。
 仏法に出会い、その根本に如来の大慈悲が仰がれるとき、私たちの理性が照らされ悲しまれ、正義を語りながら、いかにわが都合でしか生きていないか、わが身の悲しみが知らされてまいります。