暮らしの中の仏教語
 
             「因縁」 (いんねん)

  因縁という言葉を聞いてどのように感じるでしょうか。暗いと感じる人、明るいと思う人、怖いと恐れる人、有り難いと感謝する人、その受けとめはさまざまです。

 たとえば、理由もなく言い掛かりをつけることを「因縁をつける」と言います。また思いもしない不幸に見舞われますと、人は「どうして、なぜ」とその理由を問わずにはおれません。すると「それはあなたの因縁が悪いからです」と言われ、本人がとまどっていると、「その悪因縁を断ちましょう。浄化しましょう」と言ってその方法として壷や印鑑を売りつけられて、除霊のご祈梼を勧められ、あげくの果てにがんじがらめにされてしまいます。

 ところでこの「因縁」とは仏教語です。「因」は、結果を生じさせる直接的な原因、「縁」は、それを間接的に助ける条件です。
 例えば、土に種を蒔くと芽が出ます。種が因で芽が果です。因果の関係です。しかし芽が出るためには、それだけにとどまらず、種に水や日光が必要となり、そのほかさまざまな無数の条件が整わなければなりません。これらの条件を「縁」といいます。この場合、種から芽が出るのは原因と結果ですので解りやすい関係です。それで私たちはその関係のみを決定的に重視してしまいます。
 しかし事実はそれ以外に計り知れない条件があってのことなのであり、それに気づくことが大切なのです。

 因縁とは、物事はすべて因と縁によって生起しているという事実を指していう道理であり、無量の縁によって一切は存在するのですから、その背景は計り知れず、私たちの思いを超えて不思議としか言いようがありません。
 因縁の間違った理解は、第一には一方的に原因を断定して現在のあり方に結びつけてしまう独断であります。「これも運命だ」と言って自分を放棄する運命論はそのよい例です。
 第二に、因縁の道理を自分の都合や価値で解釈して善し悪しを決めてしまう独断です。

 すべては因縁に依るのですから、過去の運命によって現在が決定されているのでもなく、未来もまた決まっているわけでもありません。その意味では、すべては深い因縁によって関係しあっているわけであり、その道理は、あらゆる人間の独断を排除して、自由・平等の大地を開くのです。

 どんなにつらい境遇にあっても、それを因縁の道理によると引き受けることで、新しい天地を開く智慧に生きることが願われているのです。