暮らしの中の仏教語
 
             「有り難し」 (ありがたし)

 ある日電車の中で、ご高齢の方が席を譲ってくださった方に「ありがとうございます」とお礼を言われたら、相手の方は「どういたしまして」と応えられました。大変すがすがしいものを感じました。

 このように日常生活のなかでは、いつも「ありがとう」と挨拶が交わされ生活のなかに溶け込んでいます。相手に対する感謝の言葉として思わず「ありがとう」と言ってしまいます。実はこの「ありがとう」という言葉は本来は仏教語に由来します。

 「有り難し」と書きますが、「どう考えても有ることは困難だ、有るはずもないことが現に今有っている」という意味です。出会いのなかで、思いもかけず気づかされる感動の言葉といえましょう。

 私たちは日頃、空気でも水でも友だちでも家族でも、有ることが当然だと思っています。しかしよくよく考えてみると、決して当然だと済ませてしまうことはできません。「亡くなってみて知る親の恩」という言葉も昔から言われています。有って当然と軽く受けとめていますが、亡くなってみなければ気づかないほどに、私たちはその存在のかけがえのなさに鈍感なようです。

 また、境遇がいい時には「私を生んでくださって、ありがとう」と感謝し、境遇が悪い場合には「たのみもしないのに…」と言いそうです。確かに日常では、自分の都合に合わないことに感謝しなさいなど、不合理に思えます。

 しかし、仏教で「有り難し」ということは、自分の都合に合う合わないを超えて、そのままの自分を、丸ごと引き受けることなのです。境遇の善し悪しを超えて、生きる言葉なのです。