暮らしの中の仏教語
 
             「自然」 (じねん)

 梅の花が散り、桜の小さな蓄が春の訪れを知らせてくれる季節を迎えました。私たちは自然(しぜん)の中に生き、自然を呼吸し、自然は私たちと共にあり、私たちそのものです。人間は天地自然の恵みに感謝し、脅威に畏れ、自然を我が事として受けとめてきました。

 しかし、現代では、自然は人間を取り巻き人間と対立する環境とみなされ、人間とは別のものであり、人間が勝手に支配し利用できるものに位置づけられてしまっています。その結果、自然破壊が進み、大気汚染や地球温暖化など、引き起こされてきた問題は枚挙にいとまがありません。

 実は、明治になり西洋思想が流入してまいりますと、西洋語の”nature”(ネイチャー)が「自然(しぜん)」と翻訳されてしまったのです。西洋では”nature”は人間に対立するものと考えられていますので、いつの間にか自然(じねん)という言葉はかつての意味を失い、人間と対立する自然(しぜん)と受けとめられたのです。そこに、自然という言葉の理解に大きな混乱が生じる原因があったのです。

 ところで、もとをたどってみますと、この自然いう言葉は中国古代の老子や荘子の考えである「無為自然」にさかのぼり、その言葉を使ってインドから来た仏教語を受けとめたのです。インドでの原語は「ダルマター」で、意味は「法の本質、法のあり方、如実、あるがまま」です。それが「法の爾(しか)らしむるままに」という意味で「法爾(ほうに)」と受けとめられ、「自ずから然らしむるままに」という意味で「自然」と理解されたのです。自然とはインドの原語が中国古来からの言葉を借りて受けとめられた表現なのです。そこ”nature”という意味は全くありません。

 「自然(じねん)というは、自は、おのずからという。行者のはからいにあらず、しからしむということばなり。然(ねん)というは、しからしむということば、行者のはからいにあらず、如来のちかいにてあるがゆえに。(中略)すべて行者のはからいなきをもちて、このゆえに、他力には義なきを義とすとしるべきなり」親鸞聖人は、私たちがお念仏を申す身になるのは我がはからいを離れて、阿弥陀さまのお誓いの然らしむるままにいただくことが肝要であり、それが自然の道理なのだと述べておられます。

 阿弥陀さまの願いのままに、誓いのままに、自ずから然らしめられて歩み、生き、わが身を果たし遂げることが願われているのです。自然(じねん)とは阿弥陀さまのご本願のはたらき、つまり他力をあらわす言葉なのです。