暮らしの中の仏教語
 
             「微妙」 (びみょう)

 とあるレストランで食事をしていたとき、隣のテーブルでの会話が耳に入ってきました。「うちの子、今度大学受験なの。もう大変」「そおなの。で、合格しそう?」「んんん、ビミョー」。「ビミョウ」漢字では「微妙」です。
 会話のように「ビミョウ」と使われる時には、今の状況が不安定で割り切れない状態になっていて、どちらかと言えば、うまくいっていない状態を表しています。困ってしまう、悩んでしまう、何とかしてくださいよ、とつぶやいているようです。「ビミョー」であることは、悩みの種なのでしょうか? 

 ところが仏教語で「微妙」は、正反対で、悩みの種になるどころか、悩みを克服していく出遇いを意味していることばなのです。仏教では微妙と書いて「みみょう」と読みます。言い尽くせない奥深い意味合いがあるということで、もともと肯定的で積極的な意味を持っているのです。

 私たちが親しんでいる「三帰依文」(仏・法・僧の三宝に帰依することの表明文)があります。そのお言葉のなかに、「無上で甚深(じんじん)にして微妙(みみょう)なる法」との出遇いが大切であると勧められています。

 ちっぽけで、身勝手な人間の解釈には入らないほどの深さ、広さ、豊かさを内容にしている仏法。私たちは、それを背景にして今ここにこうして生きている。それに出遇い、自分の思い込みを超えさせて下さって、人間が正しく生きることのできる教法微妙の法なのです。