暮らしの中の仏教語
 
             「退屈」 (たいくつ)

 「毎日が何となく過ぎていき、暇だなあ、何かおもしろいことないかな~つて思ってしまうんです。だけど、かといって、とくに何かしたいことがあるわけでもないんです。退屈なんです」。通常、「退屈」という言葉は、時間をもてあまし、暇で何もすることも見当たらず、飽き飽きしているということを表します。ところが、この「退屈」という言葉は、本来は仏教語なのです。

 退屈の「退」は退き、後戻りすること。退屈の「屈」はかがみ込み、屈してしまうこと。で、「退屈」とは、仏道の修行に「屈」し、仏道の歩みが「退」いて失われることなのです。私たちは、仏道を歩むことで人生を丁寧に生きていこうとします。ところが、自分に力の限界を感じたり、先が見えなくなったりして、「もういいや」と諦めて、歩みを止めてしまいます。生きるなかで、壁にぶつかって屈して後戻りしてしまって歩めなくなる。人生の危機ですね。本来、退屈とはそういう人間の挫折の姿が言い当てられている言葉なのです。暇という意味ではないのです。努力しようとすればするだけ、未来に期待すればするだけ、挫折は大きいのです。しかし、「退屈」してしまって歩みを止めるわけにはいきません。「退屈」は乗り越えなくてはなりません。でも乗り越えると一言で言っても、自分一人では限界があるのです。自分の能力や努力に挫折したのですから、それを超える道は自分のなかにあるはずもありません。

 そこで、「退屈」を乗り越えるには「師」や「友」の存在が大切であると仏教では教えています。先生の言葉や生き方、そして友達の姿、それが退屈を乗り越える智慧と勇気を与えてくれるのです。挫折して落ち込んでしまった私に、「そこが出発点なんだよ。そこをはずして未来はないよ。あなたは今、借り物でない自分自身を生きようとしているんだよ」。挫折をとおして問いが生まれます。その問いがこの私を育ててくれるのです。だから私は歩めます。生きていけます。

 「退屈」とは、私たち人間に乗り越えるべき人生の課題を教えてくださっている仏教語なのです。