暮らしの中の仏教語
 
             「有頂天」 
            
 志望校に合格できて大喜び。仕事の功績が認められ昇進も果たし鼻高々。結婚式、この日ばかりは二人は大スター、幸せの絶頂。わが子ほど可愛い子どもはどこにもいないと溺愛状態。宝くじにヤッタヤッタの大当たり。だいたい、こういう状態を一般的には「有頂天」といいます。人生における最高の喜びでしょう。

 しかし、この人間においての最高の喜びを表す「有頂天」は、仏教においては最高の迷いを表す言葉なのです。確かに「有頂天」とは、精神世界の最も高い位を表す境地です。しかし、この境地がなぜ仏教では迷いだといわれるのでしょうか。  
 
 それはこの「有頂天」こそが、すべての人が共に生きてゆく大地(いのちのつながり)から離れて、自分ひとりだけ高きに昇ることを善しとする生き方だからです。つまり、すべてのかかわりを閉ざすことによって、大安心を得る世界であるから、それは迷いだと仏教ではいうのです。

 有頂天になると自分が有頂天であることに気づきません。自らに酔う有頂天は、自分自身で自分自身に気づくことはありません。気づくにはただ一つ、現実からの呼び覚ましによるのです。それは浮かれて天に昇った人にとっては思いもしていなかった現実の苦悩です。苦悩に呼び覚まされて初めて有頂天は自らの夢の限界に気づき、天界から人間界に生まれ変わります。人間に生まれることは苦悩を生きることです。しかし苦悩あればこそ、それをご縁にしてさらに人間として問わねばならない問いにも気づかされます。そこから思ってもみないお育てをいただき、生きることの悲しみの深さにも出遇い、新たなるつながりを発見します。
 我が思いが満たされなくても、共に生きるという深い感動をいただくことになるのです。