暮らしの中の仏教語
 
             「縁起」 
            
 「縁起」は仏教語の中で私たちに誤解されている言葉の筆頭です。例えば、朝一番のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい。結婚祝は大安の午前中に持っていくと縁起がいい。病院にお見舞いに行くときは、鉢ものの花は根(寝)付いて縁起が悪いから切り花にすると良い。などなど、数えたらきりがないほどです。

 しかし、もともと縁起は、因縁生起(いんねんしょうき)といい、全ての現象・事物は何一つそれ自体で成り立つものではなく、原因となる事柄「因」と周りの無数の関係「縁」によって生じていることを表すものです。例えば、植物の芽が出るとき、種を「因」として芽が出ると考えますが、実は水や太陽の光などを「縁」としなくては芽は出てきません。またそこには光や水にとどまらず、限りなく織りなす背景があります。私たちが平生に、縁起がいいとか縁起が悪いとかと言っているのは、そういう存在の絶対的現実に対して、自分の都合に合うものは縁起がいいと言い、都合の合わないものは縁起が悪いと言っているということなのです。それらは仏教でいう縁起の語を誤解して用いる使い方です。

 縁起とは、私の存在は、縁起として存在するのであって、私という一個の人間がそれだけで存在するのではなく、ありとあらゆるものとの繋がりの中で存在していることを表すものです。私たちの相互共存するいのちの事実を言い当てている言葉です。
 このような縁起が指し示す豊かないのちの世界に目覚めるならば、いま世界各地で起こっている弾爆テロや自国の領土や地位を武力によって主張しようとしていることが、いかに人間の縁起的な存在であることを無視し、断ち切るものであるかを知らされるはずです。

  縁起はそうした私たちの閉鎖的、独断的な生き方を問う、仏陀が目覚めた真理の法なのです。