暮らしの中の仏教語
 
             「出世」 
            
 久しぶりに小学校の同窓会が開かれてみんなが集まると決まって出てくるのは「おれたちの同級生で誰が一番出世したかな」という話題です。「○○君じゃないか」「やっぱり△△さんだよ」と会話が続いて行きます。そんな会話を聞きながら、いや自分のほうが・・と内心妬んだりします。これが一般の「出世」ということばの使い方です。
しかし実はこの「出世」という言葉は仏教語なのです。

 出世の「出」は出ること、出世の「世」は世の中のことです。そして、仏教では「出世」という言葉には二つの意味があります。一つは「世に出る」、もう一つは「世を出る」です。

 まず「世に出る」とは、悩み多い私たちをお救い下さるために仏さまがこの世に出現されることです。仏さまの出世です。お釈迦様がこの世にお出ましになられた本当の意義。それは「弥陀の本願を説くためである」と説かれています。つまり、私たちに「南無阿弥陀仏」をお説きになるために釈尊はお出ましになったのだと、そのありがたさに頭が下がった言葉です。 
           
 一方「世を出る」とは、この世間を出る、つまり出世間。略して出世です。私たちはそれぞれの境遇に投げ出され、その境遇に生きるほかありません。しかも境遇に悲しみ、翻弄され、負けていく存在です。しかし、同時に私たちは境遇を超えて生きて行こうという願いを持っています。「世間」の考え方や価値観を超えて豊かで清浄な世界に「出る」ことを願っているのです。それが出世のもう一つの意味です。    
 けれども、どこを探してみても私たちは世間を出る力を持ち合わせていません。だから、私たちが世間を出るには、ただ仏さまのご出世に、そしてご説法に出遇う以外にはないのです。