暮らしの中の仏教語
 
             「愚痴」 
            道理に暗く、迷い悩む心 

 「こんなに皆のことを考えてあげているのに誰も協力してくれない。こんな事やらなきゃよかった。」と友人に愚痴を言う。「こんなに一年間頑張って勉強してきたのに、どうして合格しなかったんだろう。もう受験なんかしない。」と親に愚痴を言う。そして、「あなたは口を開けば愚痴しか言わないのね。」と言われて腹を立てる。私たちの日常生活はおおむねこうですね。このように通常「愚痴」という言葉は、自分が行った言動の結果が自分の思い通りにいかなかったことを周りに発散する言葉として使います。

 しかし実は、この「愚痴」という言葉はもともと仏教語で本来は結果に対していう言葉ではありません。愚痴と言うのは、愚は愚か(おろか)、痴は、以前は癡と書いてました。いわゆる考えが病気になっていて、筋道がわからなくなって、「言っても仕方がない」と思いながら言っているんです。納得出来ない、と言う疑いが中心になっている事を表しています。でも心がおさまりません。誰か自分の味方になってくれる者はいないかと、自分に尋ね人にも聞いてもらったりして、堂々巡りの煩悩ですね。あわれと言うもなかなか愚かな事です。

 南無阿弥陀仏の如来様は、愚痴を言って悩んでいる貴方を悲しんで、貴方の心のど真ん中に来て、「わかった。私に任せなさい。貴方の真実の生活の中心に私が居ますから心配せずに私の名を称えてほしい。その声こそ私の心が、精一杯貴方の中で働いている証(アカシ)です。」と、語りかけて下さっています、と親鸞様は教えて下さっています