暮らしの中の仏教語
 
             「迷惑」 
       迷惑してしか生きられない私自身に立ち帰る 

 「彼はいつも私のことをあることないこと人にしゃべるんだ。本当に迷惑してるんだ。」「そうか、そりゃ迷惑な話だね」日ごろ私たちはいつも他人に対して「迷惑だ、迷惑だ」と言い続けています。また、「他人にはご迷惑だけはかけないようにね」と親は子どもをさとします。このように、迷惑とは、他人のしたことや他人の問題のために困ってしまい、煩わしくいやな思いをすることを意味しています。

 しかし実は、この言葉はもとは仏教用語なのです。迷惑の「迷」は物事の真実に迷い、誤った考えに執着し混乱すること。「惑」は自分の内にあるさまたげで、煩悩を表します。したがって、迷惑とは、自分の内にある思いにしばられて正しい道に惑うことを意味します。

 普通、私たちは、行き詰まりの原因をいろんな「せい」にして納得しようとします。しかし、納得したようで納得できないのが、行き詰まりです。人生の壁です。悩むことは大切なことですが、悩みを通して壁の正体に気づかなくてはなりません。気づかなかったら、壁を自分の置かれている境遇のせいにして、もういいと投げ出したり、人間関係のせいにして他者を排除したり、できないのは自分の無能のせいにして自分自身を軽蔑してしまいます。いつも一方的に何かの、誰かのせいにしてばかりいます。仏教では、その「せいにする」ことが、日頃気づきもしない「愚痴による迷惑」のゆえなのだと指摘し、それに気づくようにと教えてくれています。

 自分の考えのみを間違いなしと信じ、わかっているつもりになっている愚痴。そのために出来事の原因を一方的に決め込んで「せい」にして壁を作り自らをいつわり惑う迷惑。この愚痴による迷惑こそが私をさまたげている壁の正体だったのです。私たちは、真実からの呼びかけ「お念仏」によって、暖かく抱かれている如来様にお遇いしなければなりません。